~埼玉県川越市
奇襲戦とわらべ歌編~
2025.03.28
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
これまでのブログで、関東三大小江戸と呼ばれる町のうち、栃木県栃木市(ちょっと残念な風情ある町編)と千葉県香取市(北総の小江戸編)の2つを紹介してきました。しかし、小江戸と聞いて多くの人が思い浮かべるのは埼玉県川越市ではないでしょうか。下の写真は、小江戸川越のシンボルにもなっている時の鐘ですが、このような昔ながらの町並みが残っているため、多くの観光客が訪れています。私が訪ねた日も、蔵造りの町のある通りは賑わっていて、多くのインバウンドの姿も見られました。
これまでのブログを読んでくださっている方は、当然ここが目的地ではないことは予想していることでしょう。とりあえず上の写真だけ撮った私は、たくさんの観光客を横目に早足で目的地に向かったのです。
目的地がどこかを書く前に、まずは川越の位置を地図で確かめてみましょう。
下の地図を見てください。川越の町は、南西から北へ突き出た台地の上に築かれていることがわかります。台地の周囲を取り囲むように新河岸川の流れがあり、さらに西、北、東の方向は入間川によって囲まれています。北から東の方向は低地となっており、治水が行き届いていなかった昔はおそらく湿地帯でしょう。もうわかりましたね。ここは城を築くのに絶好の土地なんです。
…ということで、最初の目的地は東明寺。ここには〝川越夜戦跡〟の碑があるのです。私にとって川越と言えば、日本三大奇襲戦の1つにも数えられているこの戦いです。ちなみに、三大奇襲戦とは、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦い、毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦い、そしてこの川越夜戦のことです。
この地に城が築かれたのは1457年のこと。築城したのは、江戸城を築いたことでも知られる太田道灌だと言われています。このころの関東地方は、鎌倉公方の足利氏と関東管領上杉氏の勢力争いが続いていました。太田道灌は上杉氏の家来でしたが、この争いを見事に収めることに成功します。しかし、これによって名声を高めた道灌は、主家の上杉氏によって警戒され、暗殺されてしまうのです。
その後、関東地方には〝最初の戦国大名〟と呼ばれる北条早雲が始祖となる北条氏が勢力を伸ばしていきます。川越城も早雲の子氏綱によって攻め落とされ、以後は北条氏の城となっていきます。しかし、氏綱の死後に家督を継いだ3代目当主の氏康は、いきなりの大ピンチを迎えます。なんと、川越城が足利・上杉の8万人もの大軍によって囲まれてしまうのです。
川越城を守るのは北条綱成が率いる3000名の城兵。兵力差から考えるとあっという間に勝敗がつきそうですが、なんと川越城は半年も籠城戦を続けます。
今川氏や武田氏との争いを収めた氏康はいよいよ川越城救援のため出陣します。しかし、その軍勢は8000人に過ぎません。8万の大軍に囲まれている川越城の兵力と合わせても1万人強ですから、とても勝てるとは思えませんね。事実、氏康は足利・上杉軍に対して降伏を匂わせるような詫び状を出し続けたそうです。しかし、これは氏康の作戦でした。兵力差があることと北条側に戦意が感じられないことに、足利・上杉軍は油断します。長い籠城戦での気の緩みもあったことでしょう。
そしてある日の夜、北条軍は8万の大軍に対して奇襲攻撃をかけるのです。突然の攻撃を受けた足利・上杉軍は大混乱に陥り、多くの戦死者を出して撤退していきました。その後、北条氏は関東地方での勢力を大きく拡大していくのです。
戦国時代の数ある戦いの中でも、興味深い戦いの1つである川越夜戦ですが、石碑のある東明寺は、激しい戦いのあったことが想像できないくらいの静かなところでした。
北条氏滅亡後の関東を治めたのは徳川家康です。川越城は、江戸城の北の守りとして重要視され、代々の城主の多くは、江戸幕府の重職を務めた人物でした。城も大きく拡張され、戦国時代の2倍近い規模になったそうです。では、ここからは江戸時代の川越城を見ていくことにしましょう。みなさんも下の地図を見ながら読み進めていってくださいね。
東明寺から南へ向かい、まずは大手門跡を目指します。大手門とは城の正面に位置する門のことで、要するに正門ということですね。ここには、下の写真のように、川越城を築いた太田道灌の像がありました。道灌像の後ろに見える建物は川越市役所です。城の正門に市役所があるというのは、いかにも城下町川越にふさわしいような気がします。
大手門跡から東に進むと中ノ門堀跡があり、当時の堀の様子を見ることができます。地図を見ても窪みの様子がはっきりとわかりますね。しかし、私はあえて1本南側の道を通ることにしました。東に進む道は比較的広い通りであるため、堀跡を感じられるような起伏がありません。メインストリートではない道ならば、おそらく堀跡の起伏も残っているのではないかと思ったのがその理由です。予想通り、道は緩やかな下り坂となっていました。川越城の縄張り図と比べてみると、やはりここには2つの曲輪の間の堀があったようです。城というのは、防御のために堀や土塁などによっていくつかの区画に分けられています。その1つ1つの区画のことを曲輪というのです。本丸や二の丸などという呼び方をするときもありますね。突き当たりを南に折れ、しばらく進んだところには南大手門跡があります。ここは小学校の入り口になっていました。小学校の入り口は東の方向から入るようになっていますが、南大手門という名からは、この門の入り口は南側を向いていたであろうことが伺えます。
南大手門跡からまた東に進んでいくと、下の写真のような木々に覆われた小高い山がありました。ここが川越城で最も標高の高いところで、富士見櫓と呼ばれる建物がありました。川越城には天守がなかったため、この富士見櫓がその役目を担っていました。上に登ってみると川越の町が一望でき、おそらくその名の通り富士山もよく見えたでしょうね。この写真を撮った場所はかつて堀だったようで、この先を左に曲がるといよいよ川越城の本丸に入っていきます。
本丸への道は緩い上り坂になっており、そのまま進むと本丸御殿へ辿りつきますが、その前に少し道を逸れて三芳野神社に寄って行きます。古くからこの地の人々の信仰を集めていたこの神社は、川越城の築城とともに城の内部に取り込まれてしまいました。当然、一般庶民が近づけるはずもなく、人々は「お城の天神様」と呼んで遠くからこの神社をお参りしていたそうです。その姿を見た城主は、七五三のときに限って城内に入ることを許可したのだそうです。人々は、先ほどの南大手門から入って富士見櫓を左手に見ながら…という、まさに先ほど私が歩いてきた道を通って参拝に来たのです。
城の中に入るわけですから、当然のように検問がありました。そのチェックは、入るときよりも出るときのほうが厳しかったといいます。城内から重要なものを持ち出されてはいけないですからね。このことが童謡「通りゃんせ」のもとになったのだそうです。たしかにこの歌の歌詞のなかには〝この子の七つのお祝いに♬〟というところがあり、七五三のときに入れたというのに一致します。そして〝行きはよいよい帰りは恐い♬〟というのも、城を出るときの厳しい検問につながりますね。
三芳野神社の境内には、下の写真の碑が建てられており、ここがこのわらべ歌の発祥の地であることが書かれていました。
神社から程近いところには、下の写真の本丸御殿があります。本丸御殿というと、名古屋城の豪華絢爛な建物がよく知られていますが、あれは近年なって復元されたものです。この川越城本丸御殿は当時のものがそのまま残されており、特に大広間が残されているのは川越城と高知城の2つしかないという貴重なものです。
城から始まった川越の町は、江戸時代には物資の集散地として発展しました。その様子を偲ぶことができるのが蔵造りの町でしょう。こちらには多くの飲食店や土産店もあって、観光スポットとしては確かに魅力的だと思います。しかし、町の始まりとなった城を感じてもらうことも、この町のもう1つの魅力だと思います。観光客が多く訪れる通りからは少し距離がありますが、ちょっと足を延ばしていただくのもいいでしょう。
最後に、本丸御殿の見どころを1つだけ紹介しておきます。
大広間に行ったら、ぜひ天井を見上げてみてください。そこには城とは結びつかないあるものの跡が見られます。貴重な大広間は、かつてとんでもない使われ方をしていたのです。それが何かは、ぜひみなさんの目で確かめてみてください。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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