白井亨(しらいとおる)

~大阪府堺市
 有名人がいっぱい編~

2025.03.07

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

堺市は、大阪市の南に隣接する大阪府第2の都市で、人口約82万人の政令指定都市です。
歴史の町としても知られており、リンスタのテキストにも「堺は,日明貿易で栄え,大商人たちは自分たちで兵をやとい,武器を買って都市を守りました。これを見た外国の宣教師は,〝日本で堺ほど安全な町はない〟と本国へ手紙を出しています。」と紹介されています。
以前から訪ねてみたいと思っていたのですが、大阪に滞在していたのを機会に堺を訪ね、歴史巡りをしてみようと思い立ったのです。

堺までのルートを調べていて気づいたのが、堺市内には「堺」の名のつく駅が3つもあり、しかもそれぞれの距離が離れていることでした。下の地図でもわかるように、いちばん海側にあるのが南海本線の堺駅、そこから2㎞弱内陸に南海高野線の堺東駅、さらに約1.5㎞内陸にはJR阪和線の堺市駅があります。市内に同じような名の駅が複数存在することはよくありますが、このように中途半端な距離に分布しているのは珍しいのではないかと思います。

とりあえず、余計な文字が付いていない堺駅に向かってみようと、JR大阪環状線を新今宮駅で下車し、南海線に乗り換えることにしました。JRの改札を抜けて、正面にある南海の改札を通ってすぐのところにあったのは南海高野線のホーム。堺駅に向かう南海本線のホームは階段を上り下りしなければなりません。それがなんだか面倒になって、「どうせ堺に行くんだから」と乗り込んだのは南海高野線の電車。…ということで、堺東駅に到着したのです。
よく考えるとこの駅名っておもしろいですよね。だいたい東とか西とか付くのは駅名の最初が多いじゃないですか。普通ならば東堺駅になると思うんですが、なんで逆なんでしょうね。

さて、駅を出てまず向かったのが堺市役所。ここの21階には無料の展望ロビーがあるんです。
堺と言えば、世界遺産「百舌鳥もず・古市古墳群」、そのなかでも最大の古墳で、仁徳にんとく天皇の墓とされている大山だいせん古墳が、この展望ロビーから見られるのです。
エレベーターで最上階について、一目散に窓際に向かって見えた景色が下の写真です。

「で、でっかい…」
左下に見える線路と比べても、その巨大さがわかるのではないでしょうか。こんなものを1600年も前の人々が作り上げたなんて、ただただ驚くばかりです。できた当時はこのように木々に覆われた姿ではなく、表面には石が敷き詰められていました。歴史の学習には想像力も大切です。みなさんも当時の姿を想像してみてください。今よりももっと緑の多い風景の中に、陽光に輝く石が敷き詰められた高さ30m以上の巨大な古墳…。それを見上げる人々はどんなことを思ったでしょうかね。

古墳時代に思いを馳せながら市役所を出た私は、地図を頼りに気になるスポットの散策を始めたのです。みなさんも、下の地図を見ながらついてきてくださいね。

市役所から30分ほど歩いて着いたのが〝堺環濠都市遺跡〟と書かれた案内板の前。その向こう側には川が流れており、それがかつて堺の町の周囲をぐるっと囲んでいたほりの名残なのだそうです。下の写真のように、今となっては小さな川に過ぎませんが、この堀によって堺の安全が守られていたのですね。濠に囲まれた堺の町は南北約3キロメートル、東西約1キロメートルの範囲で、そこでは当時のものが数多く発掘されています。

川沿いの道を進み大通りに出て、道の中央を行く路面電車と時折すれ違いながら、今度は北へ向かって歩いていきました。大通りから道を1本逸れたところにあったのが、下の写真の〝千利休せんのりきゅう屋敷跡〟です。千利休も、もちろんリンスタのテキストに掲載されている人物です。

テキストには、「千利休は堺の商人の出で,織田信長や豊臣秀吉に仕えました。茶の湯を芸術の域にまで高めましたが,秀吉が天下を統一した後に秀吉のいかりを買い,切腹を命じられ亡くなりました。」と書いてあります。これについて、茶道を大成した芸術家である利休が切腹をさせられた理由がよくわからないという質問を受けることがあります。
実は、利休は茶道の道を究めた人物であると同時に、秀吉の側近としての顔も持っていました。秀吉の弟であった豊臣秀長が「表向きの事は私に、奥向きは利休に相談するとよい」と言ったという逸話が残されているように、利休は大きな権力を持っていました。おそらく、前へ前へと突き進む秀吉を支えつつ、様々な面でのバランスをとる役割を担っていたのが秀長と利休だったのでしょう。2人のところには諸大名からいろいろと相談が持ち掛けられることも多く、利休は知らず知らずのうちに広範囲に人脈を築いていったことでしょう。秀長が亡くなると、利休の存在はより大きくなっていったのではないでしょうか。その状況は秀吉にとって見過ごせるものではなかったのでしょうね。秀長が生きていればそれを止めることもできたかもしれませんが、秀吉に警戒された利休は、結果的に死を命じられることになってしまったのです。豊臣政権を支えていた2人が相次いでいなくなったことは、秀吉にとっても痛手だったことでしょう。私には、これが豊臣氏没落の第一歩だったようにも思えるのです。

安土・桃山時代に思いを馳せながら大通りをさらに北に進みます。

次に辿り着いたのは、下の写真の〝与謝野よさの晶子あきこ生家の跡〟と書かれたモニュメントの前です。
与謝野晶子もリンスタのテキストに載っている人物です。テキストには、「与謝野晶子は戦場にいる弟を思い,〝君死にたまふことなかれ〟という詩を発表しました。」と書かれ、その詩の一部も掲載されています。テキストには、この詩は日露戦争に反対するものだと書いてあるのですが、以前から私はなんとなくそれに違和感を覚えていました。

モニュメントに書いてある文章には、与謝野晶子はこの地で菓子商を営んでいた駿河屋の娘として生まれたのだそうです。兄は東大の教授となっていたため、詩に出てくる弟は実家の跡継ぎということになります。しかも、弟はつい数か月前に結婚したばかりだったのです。あくまでも私の想像ですが、与謝野晶子は跡継ぎである弟が、結婚後まもなく戦場に送られたことが可哀そうで、純粋に弟を心配して詠んだのが先ほどの詩ではないかと思うのです。跡継ぎを失うことになるかもしれない実家の行く末も気になったのでしょうね。もしそうだったら、自分の意図しないところで有名となってしまっていたことを、当人はどう感じていたのでしょうね。ちなみに、弟は無事に戦地から帰還したそうです。

明治時代に思いを馳せながら大通りをさらに北に進みます。

しばらく進むと、戎公園という広い公園がありました。公園の入り口にあったのが下の写真ですが、この公園〝ザビエル公園〟と呼ばれているようです。ザビエルと言えば、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ=ザビエルのことですね。もちろんこの人物もリンスタのテキストに載っています。テキストには「1549年,スペイン出身のイエズス会宣教師であったフランシスコ=ザビエルは,鹿児島に上陸し,日本に初めてキリスト教を伝えました。ザビエルは国内をめぐってキリスト教を布教し,キリスト教信者(キリシタン)が増えました。」と書かれています。

公園内には〝聖フランシスコ ザヴィエル芳躅碑〟というのが建っており、ザビエルはこの場所から堺の町に上陸したのだそうです。この公園は海からかなり離れているので、なんでここにあるんだろう…と思ったのですが、同じ公園内には〝中世堺の海岸線跡〟というのが石で示されており、この場所が海岸だったということもわかりました。…ということは、この公園からそう遠くない与謝野晶子の生家も海沿いにあったんでしょうかね?
さらに、公園内には〝堺鐵砲之碑〟という石碑もありました。リンスタのテキストにも「1543年,種子島(鹿児島県)に漂着した船に乗っていたポルトガル人によって,日本に初めて鉄砲が伝来しました。鉄砲は戦国大名の間に急速に広まり,堺(大阪府)などで国産の鉄砲がつくられるようになりました。」という一文があります。
鉄砲伝来を聞きつけた堺の商人橘屋たちばなや又三郎またさぶろうは、鉄砲の製造技術を学ぶために種子島へと渡り、その技術を堺に持ち帰ったそうです。戦国時代の堺は、鉄砲の産地としても栄えていたのです。貿易港でもあった堺は、火薬の原料となる硝石しょうせきを輸入することもできました。時は戦国時代…多くの戦国大名が鉄砲を手に入れるために堺の商人を訪れたことでしょう。織田信長が、15代将軍となった足利義昭から堺を直轄地とする権利を褒美としてもらったという話はよく知られていますが、これも堺の商人たちが莫大な利益を得ていたことの証でしょう。
近代になると、その金属加工技術は〝あるもの〟の製造に活かされることになります。堺には、その〝あるもの〟の博物館もあるんですよ。みなさんにとっても身近なものである〝あるもの〟が何なのかは、ぜひ調べてみてくださいね。

戦国時代に思いを馳せながら堺駅に向かって大阪市内に戻ろうと思ったのですが、堺の港町らしい風景を見ていないことに気づきました。そこで、駅からさらに15分ほど歩き〝旧堺燈台〟までやってきたのです。

堺駅からすぐのところに小さな川を渡る橋があるのですが、その橋の名は〝南蛮橋〟でした。そして、橋の上からは1人の南蛮人が川面を見つめていたのです。この南蛮人には名前もつけられており、その名が〝橋上ポルト之助〟…! このネーミングセンスがとても大阪っぽいと思ってしまうのは、関東人の偏見でしょうかね(笑)

1877年に建てられたこの灯台は、⽇本最古の⽊造洋式灯台の⼀つだそうで、およそ90年もの長い間、堺港にやって来る船の安全を見守っていたのだそうです。高度経済成長期になると埋め立て工事が進み、灯台としての役割を終えたのですが、現在でも堺市のシンボルとしてさまざまなものにデザインされているのです。

仁徳天皇、フランシスコ=ザビエル、千利休、与謝野晶子と、歴史上の有名人がいっぱいの堺は、歴史好きにはとても魅力的な町でした。今回はふと思い立っての訪問だったため、いつものような予習をあまりしないで散策してみました。それはそれでとても楽しかったのですが、あとでいろいろと調べてみると他にも行ってみたかった場所がたくさんあったのはちょっと残念でした。今度はしっかりと予習をして、またいつか堺の町を訪れてみたいと思っています。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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