~和歌山県和歌山市
御三家の城と2つの駅編~
2025.02.21
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
大阪で生まれ育った国語担当の熊部先生に聞いたところ、隣県でありながら和歌山県には一度も行ったことがないのだそうです。東京都で生まれ千葉県で育った私は、少なくとも小学生のころまでには関東地方のすべての都県に行った記憶がありますが、大阪に住む人たちにとって和歌山県はそれほど馴染みのない隣県なんですかね?
そんなことを考えながら和歌山に向かう南海電車に乗っていたのですが、車窓を見ているうちにその理由がわかったような気がします。
大阪府内はずっと市街地の景色が続いていたのですが、もうすぐ和歌山県に入るかな…と思ったころ、窓の外の景色は突然山の中になります。下の地図でもわかる通り、大阪府と和歌山県の間には和泉山脈の山々があるのです。そして、この山を越えてまた景色が開けてくると、今度は紀の川の大きな流れを越えます。府県境でのこの景色の移り変わりはなかなか興味深いものがありましたが、これによって和歌山が遠いという印象を持ってしまうのかもしれませんね。
ついでなので地理の豆知識を1つ。地図中にある友ヶ島には、日本標準時子午線となっている東経135度線が通っており、島の西にある子午線広場にはモニュメントもあるそうです。東経135度線が通るところとしては兵庫県明石市が有名ですが、和歌山県を通過しているというのは意外に知られていないと思います。ちなみに、東経135度線が通っている都道府県は、北から京都府・兵庫県・和歌山県の3つになります。
さて、和歌浦と紀三井寺を訪ねた私は、バスに乗って再び南海和歌山市駅に戻ってきました。
全国には数多くの「〇〇市駅」という名のがありますが、この和歌山市駅はそのなかで最も古いものだそうで、開業したのはまだ明治時代の1903年のことでした。「〇〇市駅」と名乗る駅名は、それ以前に「〇〇」にあたる部分の駅が近くにあったため、それと区別をするためにつけられるものが多いようです。「JRの和歌山駅があったから南海の駅は和歌山市駅なんだ」と思ったかもしれませんが、JR和歌山駅は1968年まで「東和歌山駅」という駅でした。では、「和歌山駅」はどこにあったのでしょうか?
和歌山の地に鉄道が初めて通ったのは1898年のことでした。このときに開業したのは、現在のJR和歌山線にあたる紀和鉄道で、紀の川沿いに奈良県の五条市との間を結ぶ路線でした。このときの和歌山駅は、現在の紀和駅にあたり、地図を見ると繁華街であるぶらくり丁や和歌山県庁や市役所のある市の中心部からはかなり離れた位置になっているのがわかります。続いて、大阪市内から伸びてきた南海鉄道が和歌山市駅を開業させます。紀和鉄道も和歌山市駅まで路線を延長し、名実ともに和歌山市駅がターミナル駅となっていきます。紀和駅よりは近いものの、やはりこの駅も市の中心部からは離れています。なぜこのように不便な位置に駅を設置したのでしょうか?
その理由は、江戸時代の和歌山が徳川御三家の城下町として繁栄していたことにあります。今でこそ、近畿地方で唯一人口が100万人を切るというちょっと残念な状態となっている和歌山県ですが、江戸時代の和歌山は、全国でも有数の大都市として賑わっていたのです。つまり、江戸時代から市街地が発達していたことから、城下町の外れのこの位置にしか駅を設置することができなかったんですね。
上の写真の和歌山市駅は、2020年に開業したキーノ和歌山という施設が併設された立派な駅です。商業施設やホテル、図書館などもあるとてもきれいな建物でした。しかし、この駅の向かい側、つまり写真を撮っている私がいる側は古びた建物ばかりで、なんとなく寂れた感じです。駅の利用客も、1980年ごろと比較すると半分以下になっているそうです。
南海電鉄は、この先和歌山港までの路線が伸びています。かつては、徳島県方面から大阪に向かう人は、船で和歌山港に渡り、南海電鉄で大阪中心部に向かっていました。しかし、明石海峡大橋が開通するとこのルートの利用は大幅に減少し、これも和歌山市駅の衰退の一因になっているようです。
さて、ひと休みしたあとは、バスに乗って和歌山城に向かいます。一日乗車券を持っている今日の私は、いつもなら歩く距離もバスで移動するのです(^^♪
和歌山城近くのバス停からは、小高い丘の上にある天守を見上げることができ、城の威厳を感じることができました。さすがに御三家の城ですね。下の写真は、坂や階段をかなり上ったところから撮ったものなのですが、それでもなお立派な姿だと思いませんか。
ここで疑問に思うことがあります。なぜ御三家の1つが和歌山だったんでしょうね?
尾張徳川家の名古屋は今でも日本の重要都市です。水戸徳川家は、以前のブログ(茨城県水戸市 幕末のプロローグ編)でも書きましたが、北への備えとして重要でした。
こういうときは、もう少し広い範囲で位置を確認してみると、何らかの気づきがあるものです。
どうでしょうか? みなさんは下の地図を見て何か気づいたことはありますか?
地図を見ていた私は2つのことに気づきました。
まず1つは防衛上の理由だと思います。江戸幕府にとって西日本方面の防衛拠点が大阪城であることは間違いないでしょう。幕府の直轄地である大阪には大阪城代という役職が置かれ、西国大名の監視の役目を担っていました。大阪城が攻撃された場合、和歌山城から紀の川沿いに進んで奈良盆地に出れば、東から大阪城に進軍することができます。また、奈良盆地から北上すれば京都に至るので、朝廷を押さえることもできるでしょう。万が一、大阪城が攻め落とされてしまっても、和歌山城を無視して東に向かって進軍することはできないはずです。また、陸路だけでなく、九州や四国から直接船で江戸に向かおうとしたところで、その船は必ず和歌山県の沖を通ることになりますよね。こうして見ると、和歌山の位置は江戸幕府の防衛上とても重要だったのだと考えられないでしょうか。
もう1つは経済面での理由だと思います。江戸時代の大阪は「天下の台所」と呼ばれた商業の中心地でした。大阪湾には数多くの船が行き交っていたことでしょう。特に、幕府のある江戸と大阪を結ぶ航路は当時の重要な輸送路だったはずです。それらの船が必ず通過するのが、和歌山と淡路島の間ということになります。和歌山はそれらの船の監視をすることができる位置にあるわけです。和歌山に入港する船も多くあったでしょうから、物流の拠点としても賑わったことでしょうね。そういえば、先ほど訪ねた和歌の浦からも、海上を行き交う多くの船の姿を確認することができました。
この2つが、和歌山に御三家の1つを置いた理由だと思うのですがいかがでしょうか?
和歌山城を後にした私は、大阪へ戻るためにJR和歌山駅に向かいました。もちろん、この移動にもバスを使っていますよ🚌
和歌山駅は、和歌山城の東の方向にあり、やはり市の中心部からは離れた位置となっています。JR線は、南にある和歌山県内の各都市に向かって路線を伸ばしています。前述した通り、都市の発達していた和歌山の中心部に鉄道を通すことは困難ですので、南へのルートを確保するためにはこの位置に駅を置くしかなかったのでしょうね。もともと和歌山駅を名乗っていた現在の紀和駅は、東和歌山駅(現在の和歌山駅)よりは市の中心部に近い位置にあります。しかし、大阪から和歌山を通って紀伊半島方面へ向かう路線の開通により、JRのメインルートから外れてしまったのです。そうすると、和歌山市の玄関口としての役割も東和歌山駅に移ってきたため、それぞれの駅名を変更することになったのです。ただ、いずれにしても和歌山市では、和歌山駅と和歌山市駅という2つのターミナル駅が、ともに市の中心部からは離れたところにあるという結果になってしまったのです。
和歌山市駅と比べると、和歌山駅の方が人の姿も多く見られ、駅ビルや隣接する百貨店も賑わっていましたし、よく見るチェーン店の看板も多く見られました。調べてみたところ、和歌山駅の利用客は和歌山市駅の2倍以上になっていました。もしかすると、和歌山市の中心部はJR和歌山駅周辺に移ってきているのかも…と思いながら周辺を散策してみたところ、駅の南側にみその商店街という看板を見つけました。アーケードのある立派な商店街なのですが、足を踏み入れてみてびっくり! 商店街のほとんどの店がシャッターを下ろしているのです。夜になると少し賑やかになるのかもしれませんが、県庁所在地の駅前という感じではありませんでした。
2つの駅が離れた位置にあることは、和歌山市中心部の衰退につながってしまっているようです。ぶらくり丁とよばれる繁華街は、かつては多くの人が行き交う商店街だったそうです。しかし、どちらの駅からも遠いということから、近年ではシャッター通りとなってしまっているとか…。
さらに、紀の川の北には最近になって大きなショッピングモールができたのだそうです。こちらの利用が増えることで、和歌山市中心部の衰退は、さらに進んでいってしまったのかもしれません。
このブログでも、いくつかの地方都市を紹介していますが、それらの都市でも「昔に比べて寂れているんだろうな」とか、「なんだか人の数が少ないな」という感じを受けたところが多いのです。日本の人口減少は、地方ほど深刻な問題になっているのでしょう。東京で生活する毎日は人の多さに辟易していますが、このような現状を目の当たりにすると考えさせられるものもありますね。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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