~東京都荒川区 Uターンの理由編~
2025.01.17
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
「急がば回れ」というのは、回り道でも確実で安全な道を通った方が結局は早く着けるものだという意味の言葉です。しかし、目的地まで速やかに到着することが求められる交通機関の場合は、〝特別な事情〟がない限りは、できるだけ回り道をしないほうが利用する側にとっても都合がいいでしょう。その〝特別な事情〟には以下の2つのような場合が考えられます。
上の地図の黄色い線は、山梨県内を通るJR中央本線です。勝沼ぶどう郷駅から山梨市駅までは、水色の矢印のようにまっすぐ進んだほうがよさそうですが、なぜか北に大きく迂回しています。この迂回の理由は、地図から読み取ることができますね。
地図の色を見てください。勝沼ぶどう郷駅のあたりは茶色のところが多くなっていますね。これは標高が高いということです。一方の山梨市駅のところは黄色っぽい色になっています。つまり、両駅には標高の差があるということなんです。鉄道は急な勾配を進むことが苦手ですから、この標高差を一気に縮めることはできません。そのため、山の斜面に沿って北に向かって少しずつ標高を下げていった結果、このような線形になったということです。山地の多い日本には、このような勾配緩和の目的での迂回の例は、他にも数多く見られます。
では、下の地図の迂回はどうでしょうか?
地図中の青い線はJR東海道本線です。新大阪駅から西に向かうのであれば、緑の矢印のようにまっすぐ進んだほうがよさそうですが、南へ大きく迂回しているのがわかりますね。このあたりは大阪平野の一部なので、先ほどの山梨県のように標高の差があるとは思えません。この地図では標高はわからないですが、それがわかる地図を用意する必要がないほど、ここは平坦な土地です。
大阪の街には、「キタ」「ミナミ」と呼ばれる繁華街があります。大阪駅のあたりは「キタ」になりますので、この地図よりも南側にも「ミナミ」の繁華街があるのです。有名なグリコの看板のあるあたりですね。もし、東海道本線が緑の矢印のように進んだら、大阪の中心地からはかなり離れたところを通ることになってしまいますね。つまり、この迂回は、鉄道の路線を少しでも大阪の中心地に近づけるためのものだったのです。このような例は、以前に紹介した仙台駅にも見られましたね。
このように、迂回をするには何らかの理由があるのですが、ちょっと見ただけではなぜこんな不自然な遠回りをしているのかということがわかりにくい例もあるのです。
JR常磐線は、東京都荒川区の日暮里駅から、千葉県、茨城県、福島県を経由して宮城県岩沼市の岩沼駅までを結ぶ路線です。常磐線の「常」は茨城県の旧国名である常陸国、「磐」は福島県の太平洋側の旧国名である磐城国を表しています。2011年に発生した福島第一原子力発電所の事故で大きな被害を受け、長い運休期間を経て2020年に全線が復旧したというニュースは、マスコミにも大きく取り上げられていました。近年は、東京駅や品川駅にも乗り換えなしで行かれるようになり、利便性も増しています。
その常磐線ですが、地図を見ると不思議な経路を辿っていることに気がつきます。
下の地図を見てください。上野駅を出た列車は左にカーブして日暮里駅に向かいます。このあたりは、線路の左側が崖になっているので、このカーブは地形上しかたのないものです。ところが、日暮里駅を出ると、まるでUターンをするかのように大きく右にカーブして三河島駅に向かい、さらに左に大きくカーブして南千住駅に到着します。この南千住駅、地図を見ると上野駅からほぼまっすぐ進んだところにありますよね。同じように、上野駅を通って南千住駅に向かう東京メトロ日比谷線は、ほぼまっすぐのルートになっています。なぜこんな不自然に遠回りをしているんでしょう。これは「?」ですね!
まず考えられるのは、このUターン部分の内側には住宅などの建物が密集していて、鉄道のための用地を得ることが困難だったのではないかということです。そこで、「今昔マップ」を使って昔の地図を見てみることにしました。
常磐線が開通した19世紀末の地図でUターンの内側を見ると、南側には住宅地が多く見られるものの、北側はまだまだ空き地も多くあり、ここまでの大回りをする必要はないということがわかりました。この時代ならば、国の介入などによって強引に用地買収はすることもできたはずです。どうやら、用地の確保が困難だったという仮説は当たっていないようです。
こうなると現地に行ってみるしかないので、まずは日暮里駅に行ってみることにしました。北口を出ると、駅の東西をつなぐ<下御隠殿橋という橋の上に出ます。この橋の下には、山手線、京浜東北線、新幹線、上野東京ライン、常磐線、京成線の線路が通っており、中央に設置された〝トレインミュージアム〟と呼ばれるバルコニーからは、ひっきりなしに電車が行き交う様子を眺めることができます。この日は土曜日だったため、多くの子どもたちが楽しそうに電車を眺めていました。下の写真からも、常磐線の列車が右にカーブしていく様子がわかると思いますが、ここではその理由についての手がかりを見つけることはできませんでした。
そこで今度は隣の三河島駅に行ってみることにしました。15分ほど歩いて着いた三河島駅は高架橋の上にホームがあり、駅の出口に面した道路には線路が通る4本の橋が架かっていました。三河島駅を通るのは常磐線だけなので、上りと下りの2本の線路があればいいはずです。接続する路線のあるターミナル駅や通過待ちの設備がある駅ならばともかく、そのどちらでもないこの駅に線路が4本あるのはなぜなんでしょう。
それを確かめるべく、改札を通ってホームに上がってみました。下の写真を見てください。ホームに面した線路が常磐線の上り線です。その右側に坂を下っていく線路がありますよね。ホームの反対側に行って下り線を確かめましたが、同じ構造になっていました。いったいこの線路はどこに行くのでしょうか?
下の地図でもわかる通り、三河島駅から西に向かってまっすぐ伸びる線路があります。坂を下っていくこの線路は、貨物列車専用のいわゆる「貨物線」だったのです。
ここで1つ思い出したことがありました。1962年に起きた「三河島事故」と呼ばれる、160名もの尊い命が失われた大事故のことです。この事故の原因となったのが貨物列車の脱線でした。そこに乗客を乗せた下り電車が衝突し、さらに上り電車が突っ込んできたことで起こった事故でした。このことからもわかるように、昔からここには貨物列車が通っていたのです。
下の写真は、貨物線の途中にある踏切から三河島駅方向を撮ったものです。線路の先のほうにトンネルのようなものがありますが、この上を日暮里駅からカーブしてきた常磐線が通っています。
しかし、もともとの常磐線は、このまっすぐに伸びている線路のほうだったのです。
常磐線が建設された目的は、茨城県北部から福島県南部にかけて広がっていた常磐炭田の石炭を輸送することでした。そして、北からやって来た石炭輸送の貨物列車は、港のある横浜や東京湾岸の工場などに運ばれました。現在は、上野駅から東京駅や品川駅に向かう線路が伸びていますが、当時の鉄道は上野駅が終点で、その先に向かうためには山手線をぐるっと回って東海道線に乗り入れる必要があったのです。現在の湘南新宿ラインに近いものですね。そのため、開通したばかりの常磐線の起点は田端駅だったのです。これなら進行方向を変えることなく、山手線方面に進んでいけますよね。
一方、常磐線の旅客列車は上野駅が始発だったのですが、田端駅で進行方向を変えて茨城県方面に向かっていました。当時の列車は機関車が引くものでしたので、田端駅で機関車をつけかえる作業が必要でした。これは効率が悪いですよね。そこで、建設されたのがあのUターンだったのです。このカーブによって日暮里駅とつなげられたことで、進行方向を変えることなく列車が運行できるようになったというわけです。
南千住駅からまっすぐに上野駅に向かわなかった理由は、おそらく建設費の問題ではないかと思います。前述した通り、まっすぐのルート上には住宅地もあるのです。まだ使われていない土地も多かったとはいえ、一部では土地の買収をしなければなりません。また、もともとの線路をできるだけ進んだところにカーブの起点を設けることで、新しく線路を建設する距離を短くすることもできます。カーブの起点を東側にすれば、もっと緩やかにできるのですが、その分だけ距離が長くなりますよね。その結果、一見ムダに思えるようなUターンをすることになったのでしょう。
ここで1つひらめいたことがありました。
現在の常磐線の旅客列車は、日暮里駅から上野駅、東京駅、品川駅へと直通していますが、この貨物線を使えば池袋駅、新宿駅、渋谷駅にも直通できるのでは? 湘南新宿ラインならぬ〝常磐新宿ライン〟…これができたら常磐線沿線の人にとっては便利だと思うんですけどねぇ…。無理なのかなぁ…。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
前回の記事はこちら
- 小学生
- グループ指導
- 個別指導