白井亨(しらいとおる)

~滋賀県草津市 二大街道の分岐点編~

2024.12.27

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

江戸時代、江戸の日本橋を起点に各方面に向かっていた主要道路のことを五街道といいます。すなわち、東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道のことですね。このうち、都のあった京都へ向かう旅人が利用したのが東海道と中山道で、この2つの道は江戸時代の二大街道と言ってもいいでしょう。
東海道は、現在の神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県を経由する、その名の通り海沿いを行く道です。また、中山道は、現在の埼玉県、群馬県、長野県、岐阜県、滋賀県を経由する、その名の通り山の中を行く道です。そして、その2つの街道の分岐点となっているのが滋賀県草津市にあった草津宿です。

それではまず草津市の位置を地図で確認してみましょう。
滋賀県南部にある草津市は、県庁所在地の大津市に次ぐ人口を有する県下第2の都市となっています。JRの快速電車を利用すると、京都まではおよそ20分、大阪まではおよそ50分で行くことができるため、現在は京都・大阪両都市のベッドタウンとして発展しています。滋賀県内の駅の利用者数は、1位が草津駅、2位が隣の南草津駅となっており、草津駅前には滋賀県内唯一の百貨店もあります。

ところで、草津というと、特に関東地方に住んでいる人たちは、群馬県の草津温泉をまず思い浮かべるでしょう。この2つの草津ですが、同じ地名でありながらその由来はまったく異なります。
まず、群馬県の草津ですが、この地名は〝臭い水〟を意味する〝くそうず〟が変化したという説が有力だそうです。たしかに温泉は独特の匂いがありますからね。これは納得できる気がします。
次に滋賀県の草津ですが、こちらは「草」「津」のそれぞれに意味があるようです。まずは「津」ですが、この漢字は〝港〟を表しています。かつての琵琶湖は水運がさかんで、沿岸には大津、今津などの地名もあります。草津宿からは少し離れていますが、草津市自体は琵琶湖に面していますから、おそらくここにも琵琶湖水運の港があったのでしょう。また、「草」という漢字は〝陸地〟を表しているそうです。古くから街道の分岐点だった草津にはさまざまな物資が集まってきたことでしょう。いわば「陸上の港」というような役割を担ってきたと考えられます。つまり、草津という地名には「水陸の輸送の要所」という意味があるのです。
足利義昭を室町幕府の15代将軍とした織田信長は、義昭からの副将軍就任依頼を断り、その代わりに堺・大津・草津の支配権を求めました。堺は貿易の拠点、大津は都の外港として栄えていたところですので、草津はそれに匹敵するほど重要視されていたということです。

さて、今度は2つの街道と草津市の位置を地図で確認してみましょう。
当時とは少し経路が異なる部分がありますが、地図中の国道1号線が東海道、国道8号線が中山道です。現在の分岐点は、草津市の東にある栗東りっとう市になっていますが、この周辺が交通の要衝であることは今でも変わりありません。それぞれの街道が別の道として京都に向かわず、この地で合流することになったのには何か理由がありそうですね。

まずは地形上の理由でしょう。中山道はこれよりも琵琶湖寄りに進むと、明らかに遠回りになってしまいますね。また、地図を見ると中山道から琵琶湖にかけてのあたりには水田の地図記号が多く見られます。水田があるということは水はけの悪い土地でしょうから、街道を通すにはあまり適した土地とは言えないでしょう。
東海道については、これ以上南にすると山間部を通ることになります。一見遠回りをしているようにも見えますが、これも通行のしやすさを考えるとしかたのないことなのでしょう。

もう1つの理由は、都の防衛上の理由ではないかと思います。草津宿から西へ進んでいくと、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川に差し掛かります。古くからこの川に架かる唯一の橋が、下の写真の〝瀬田の唐橋〟です。

東から都に入るにはこの橋を渡るしかなく、瀬田の唐橋は「唐橋を制する者は天下を制す」と言われ、壬申の乱、源平合戦、承久の乱など、テキストにも載っているさまざまな戦いの舞台にもなっている重要な橋だったのです。これらのことからもこの橋の重要性をうかがい知ることができ、瀬田川を都への防衛ラインにするためには、瀬田の唐橋に至る前に2つの街道を1つにしておく必要があったということですね。
都を目指した武田信玄は、その死の間際に「我が軍旗を唐橋に立てよ」という遺言をしたそうです。史実かどうかは定かではありませんが、これも瀬田の唐橋が都への入り口として知られていたということがわかるエピソードですね。

さて、話題を草津に戻しましょう。
草津駅には東海道本線の列車に乗ってやってきたのですが、東海道という路線名を冠していながら岐阜県から滋賀県にかけては中山道に沿って走っています。

地図を確認したところ、宿場町らしくいくつかの道標が残されているようなので、それらを見に行ってみることにしました。
まず向かったのが横町道標です。これは、東海道に設けられた草津宿への入り口の目印だそうです。草津駅から駅前の通りを進み、右に折れてしばらく進むと、なぜか上り坂に差し掛かりました。なんでここに上り坂があるんだろうと思いながら進んだその先に横町道標はありましたが、その先はまたすぐに下り坂となっていたのです。つまり、この道標があるところだけが丘の上のような地形になっているんです。不思議に思いながら坂を下り、東海道と中山道の合流点を目指しました。通っている道は旧東海道で、両脇の建物や道の狭さから、なんとなく昔の雰囲気を感じさせます。

分岐点に辿り着き、道標を確認しようと思ったのですが、それよりもまず気になってしまったのが右手に見えたのがトンネルでした。反対側の出口もすぐに見通せる短いトンネルなのですが、この上に別の道路でも通っているのでしょうか? 道の反対側を見るとトンネルの上に上って行く階段が…。なんだか無性にここの正体が知りたくなり、そのまま階段を上って行きました。本来の目的だった二大街道の分岐点を示す立派な道標の撮影を忘れていたくらい、そのときはトンネルの上の様子が気になってしまったのです。

階段を上ったところには、下の写真のような風景が…。
「ここって河原じゃないの?」
水はありませんけど、堤防とその間を流れる川が見えてきませんか?

調べてみたところ、ここには2002年まで草津川という川が流れていたのです。つまりあのトンネルは、川の下をくぐるトンネルだったのです。
このような川のことを〝天井川〟といいます。洪水を防ぐために川の両側に堤防を築くと、土砂が溜まって川底が高くなります。そうなるとまた洪水が起こりやすくなるので、さらに高い堤防を築きます。そうするとまた土砂が堆積して川底が高くなります。こうしたことをくり返しているうちに、川の高さが周囲の土地よりも高くなってしまいます。このような川が天井川で、草津川は江戸時代にこのような形になったのだそうです。
近年になって草津市がベッドタウンとして発展していく上で、草津川は町を分断するだけでなく、洪水の不安もあり、町の発展の障害になってきました。そこで川の流路を変える工事がおこなわれ、昔の川があったこの場所は公園として整備されたのです。先ほどの横町道標があった丘のように見えた地形も、この草津川の一部だったんですね。あとで草津駅から下りの電車に乗ったところ、東海道本線も草津駅の南側のところでこの川の下をトンネルで通過していました。

最後に訪れたのは、上の写真の草津宿本陣です。駅から少し離れたこのあたりは人通りもあまり多くなく、宿場町の雰囲気も十分に感じることができます。でも、かつてのこのあたりは、きっと多くの旅人で賑わっていたことでしょう。
古い建物の背景には高層マンションが見えますね。一見ミスマッチな風景に見えますけど、私は「これこそが現在の草津の風景なのだ」と思ったのです。昔の宿場町としての草津と、現代のベッドタウンとしての草津とのコラボ。これこそ今の草津を象徴する姿なのです。

駅に戻る道すがら、先ほどの道標の撮影を忘れていたことに気がつきました。わずか300mほどなのですが、なんだか戻るのが面倒になって地図を見たところ、すぐそばに明治時代に立てられた分岐点の道標があることがわかりました。それが下の写真です。

撮影を忘れた言い訳をするわけではありませんが、この道標は先ほどのトンネルと関係があるんですよ!
1886年に草津川をくぐるトンネルができたときに、江戸時代の東海道も新しくなり、中山道との分岐点もこの位置に移動したのだそうです。少しくらい戻って撮影すればよかったのにと思われるかもしれませんが、この日は関ヶ原と米原にも立ち寄っているんですよ💦 それに元々の道標もちゃんとこの目では見ていますからね💦 これだって立派な道標じゃないですか💦

なんだか言い訳が見苦しくなってきましたね。…ということで、今回はこのあたりで。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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