~岐阜県不破郡 天下分け目の決戦地編~
2024.12.06
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
慶長5年(1600年)9月15日早朝、両軍合わせて総勢15万以上ともいわれる大軍が、霧の中で決戦の時を待っていました。それから424年後の某日朝、決戦当日を思い起こさせるような曇り空の関ヶ原駅に降り立ちました。
日本の歴史上最も有名な戦いの1つである関ヶ原の戦いは〝天下分け目の決戦〟と言われ、この戦いに勝利した徳川家康がその後の天下を治めることになります。これまでも東海道新幹線の車内から何度となく眺めていたこの古戦場に初めて訪問することができて、駅を出た瞬間からかなりテンションが上がってきました。その気持ちをさらに盛り上げてくれるのが、古戦場へ向かう坂道の壁沿いの掲示です。ここには関ヶ原の戦いの開戦から経過までの様子が書いてあり、歩を進めるごとに関ヶ原の戦いの予習をすることができます。
天下分け目というものの、午前8時くらいに始まった関ヶ原の戦いは、午後1時くらいに決着がついたと言われています。両軍の兵力はむしろ西軍のほうが多かったのに、なぜこんなにあっさりと勝敗がついてしまったのでしょう。
それではいつものように、まずは関ヶ原の位置を地図で確認し、そもそも関ヶ原がなぜ天下分け目の戦場になったかということから考えていきましょう。
地図を見てわかる通り、関ヶ原は南北を山地に挟まれた狭い土地です。前回のブログでも書いた通り、大垣城にいた石田三成は、居城であった佐和山城に向かう徳川家康軍を関ヶ原で迎え撃とうとしました。ここを突破されると、佐和山城を攻められるだけでなく、琵琶湖沿岸を抜けて京都や大阪にもかなり近づくことができます。
関ヶ原は、中山道、伊勢街道、北国街道の分岐点となっており、宿場も置かれていた古くから交通の要衝でした。672年に起こった壬申の乱のときにもここが重要な戦いの舞台となっていましたし、古代のこの地には〝不破関〟という関所も置かれていました。現在でも、東海道本線、東海道新幹線、名神高速道路などの東西を結ぶ重要な交通がこの関ヶ原に集まっています。つまり、西に進軍していく家康はここを通過するしかなく、三成はそれを待ち構えたのです。また、関ヶ原は西に向かうほど標高が高くなるので、西軍が関ヶ原の西に陣を構えるのも理に適っています。
さて、いよいよ古戦場散策を始めていきます。下の地図を見ながら読み進めていってください。
戦いの経過については諸説あるようですが、定説となっているものをもとにしています。また、それに対する考察や想像はあくまでも個人的なものですので、あらかじめご了承ください。
まず向かったのが、関ヶ原の戦いが始まったとされる場所です。地図中には「開戦地」と記してあります。
このあたりで、東軍福島正則の軍が、西軍宇喜多秀家の軍に攻めかかったことが戦いの始まりとなったそうです。下の写真の幟が立っているところが開戦地です。攻めていった福島正則はこんな風景を見たのかもしれませんね。
ここに来て思ったのは、開戦地がかなり西に寄っているなということです。関ヶ原の西の出口を塞いで布陣している西軍を東軍が攻めているわけですから、それもあたりまえと思ってしまうのですが、南東方向にある南宮山には毛利の大軍が布陣しているのです。東軍があまり西のほうに入りこみ過ぎると、毛利軍によって背後を突かれる可能性もありますよね。
しかし、家康は抜かりなく手を打っていました。南宮山の麓付近には、毛利一族の吉川広家の軍が布陣していました。広家は家康とあらかじめ内通しており、背後の南宮山にいた毛利軍の動きを止めていたのです。これによって、付近にいた長宗我部盛親や長束正家の軍も動けなくなり、西軍の兵力は大幅に減少することになりました。これを見た三成は苛立ったでしょうね。
次に、徳川家康が最後に本陣を置いた場所に向かうことにしました。地図中では、徳川家康軍を青、石田三成軍を赤で示していますが、矢印の左側のところです。途中で見つけたのが、西軍島津義弘の陣地だった場所です。地図中の神明神社に隣接した場所にありました。
この場所を見て私が思ったのは「島津はやる気なかったんだな…」ということでした。上の写真でもわかるように、このあたりには樹木が生い茂っていて、周囲より少しだけ土地が高くなっていました。積極的に敵を攻撃しようとする軍が、このような場所に陣取るとは思えないのです。三成は島津軍に対し再三出撃依頼をしましたが、「島津は島津としての戦いをする」とよくわからないことを言ってその依頼を断り続けたそうです。
西軍の敗北が決定的になると、島津軍は退却路を塞がれて孤立してしまいます。そこで島津が採った戦法がなんと敵中突破でした。家康の本陣に向かって突進した島津軍は、そのまま伊勢街道に入り南へ退却していったそうです。当然、多大な損害が出るわけで、だったら最初から戦うか、先ほどの毛利軍と同じように主戦場から少し離れたところに陣取ればいいのではないでしょうか。中途半端な戦いに巻き込まれて犠牲になった島津の兵士たちがなんだか気の毒に思えてきました。この戦いで、島津軍の9割以上の兵士が戦死したそうです。島津義弘は名将と言われることもあるようですが、私はこんな戦い方をする人物を名将と呼ぶのには抵抗がありますね。
ただ、この突撃は家康に「島津は手強い」という印象を与える効果はあったようです。西軍に属していながら領地をまったく奪われることがなかったのは、早く天下統一を果たしたい家康が、手間のかかる戦いをするよりはこのまま放っておこうと思ったからではないでしょうか。ちなみに、毛利氏は戦わなかったにも関わらず、大幅に領地を削られてしまいました。
毛利氏と島津氏はこの260年後、徳川家を倒し江戸幕府を滅亡させることになります。そのことを考えると、家康は島津に対してもっと厳しい措置をとったほうがよかったのかもしれません。
島津軍の陣地から家康の陣地までは徒歩で10分もかかりませんでした。この距離から突っ込まれてきたわけですから、家康もかなり焦ったのではないかと想像できます。
関ヶ原の古戦場は、おもなスポットに上の写真のような石碑や幟などが建てられ、それぞれの場所での説明書きや道案内も整えられていました。戦いについてあまり詳しくない観光客でもわかりやすく楽しめるように工夫されているんですね。
南宮山にいる毛利軍が攻めてこないわけですから、本陣の場所は最初からこの場所でも問題なさそうなのですが、戦いが始まったときには3㎞ほど東だったというのは、いかにも慎重な家康らしいと思いました。家康がこの場所に陣を移動させたのは戦いが始まって2時間ほど経過した午前10時ごろだったと言われています。おそらくもうそのころには東軍がかなり有利に戦いを進めていたのでしょうね。
この場所の隣に岐阜関ケ原古戦場記念館という博物館があるのですが、これはまたあとで訪ねてみることにして、今度は石田三成の本陣があったところに向かいます。およそ1㎞の道のりは、ずっと上り坂が続いていました。高低差がある場合は、当然高いところに陣取ったほうが有利になります。坂道を登りながら、軍の配置だけを見れば西軍のほうが有利だっただろうなぁと考えていました。
途中にあった〝決戦地〟は、関ヶ原の戦いの勝敗が決まったところです。ここから見ると、三成の本陣があったとされる笹尾山は目と鼻の先です。ここまで攻め込まれたということは、明らかに西軍の大敗ということでしょう。この距離感からそれを実感することができたのです。
小雨の降る中でしたが、笹尾山に登ってみることにしました。三成が見たであろう風景を、この目で見てみたくなったのです。地図を見たときから思っていたのは、リーダーである三成の陣地が端に寄り過ぎているのではないかということでした。そもそも三成には全軍の指揮権はなかったのかもしれません。軍の配置も三成の意図したものではなく、各軍も三成の意図に従わなかったように思えます。
上の写真が笹尾山の上から見た風景です。三成も同じ風景を見ていたのでしょうか。そして、実際にここに来て気づいたのは、東の方角に山の尾根が伸びてきており、その方向が死角になっているということでした。写真でも左のほうの見通しが悪くなっているのがわかると思います。そしてその方向にある岡山に陣を敷いていたのが東軍の黒田長政でした。
そして、この死角に関係するのではないかという展開が、実際に起こってしまいます。笹尾山の麓には、三成が最も頼りにしていた重臣島左近の軍があったのですが、開戦して間もなくこの島左近が黒田軍から銃撃を受けてしまうのです。三成にとっては大きな痛手だったことでしょう。おそらく黒田軍は、山の尾根の陰に隠れながら笹尾山に近づくことができたのではないかと思うのです。それによって、防御態勢が遅れたことで、島左近は敵の銃弾を受けることになってしまった…と考えるのは不自然ですかね。
毛利の裏切り、動かない島津、頼りにしていた島左近の負傷と、三成にとって想定外のことが続きます。そして、最後にあの小早川秀秋の裏切りがあるのです。西軍の1つとして松尾山に陣取っていた小早川軍は、戦いが東軍有利と見て寝返ったとか、いつまでも動かないことに業を煮やした家康が鉄砲を撃ちかけて慌てて山を下りて西軍を攻撃したとか言われています。小早川秀秋が西軍への攻撃を仕掛けたのは正午ごろということになっていますが、実際はもっと早く決断をしたのではないかと思うのです。
上の矢印で示したところが松尾山の小早川軍本陣があった場所で、写真ではわかりにくいと思いますが、白い幟が立てられています。これだけ高い位置にあるわけですから、おそらく松尾山からは関ヶ原の全体が見えたのではないかと思います。家康が本陣を西に移動させた時点で、毛利が動かないことはわかると思いますし、そうなると兵力差で東軍が有利なこともわかります。考えてみれば小早川家も毛利の一族ですからね。ドラマなどでは優柔不断でいつまでも決断できない小早川秀秋が描かれることが多いですが、家康は小早川の参戦が勝敗を決定づけるダメ押しとなるようにしっかりと手を打っていたのではないでしょうか。
ちなみに、小早川軍のいる松尾山に催促の鉄砲を撃ったという話はおそらく創作でしょう。上の写真からも、それが難しい距離であることがわかると思います。
関ヶ原の戦いの勝敗の要因は、用意周到に各武将との関係を構築していった家康と、西軍の諸将を掌握しきれずに力を結集させられなかった三成の差だったように思えます。天下分け目でもなんでもなく、戦いが始まる前の段階ですでに結果は決まっていたように思えるのです。
でも考えてみれば、全軍の指揮権を得られないままの中途半端な立ち位置で戦場に赴いた三成も気の毒ですね。このことから考えれば、関ヶ原の戦いの戦犯は、大阪城から動かなかった総大将毛利輝元と秀吉の遺児豊臣秀頼でしょう。すべての責任を負わされた三成も、ある意味この戦いの犠牲者なのかもしれません。
最後に岐阜関ケ原古戦場記念館を訪ねました。迫力ある戦いの映像や、さまざまな展示資料も興味深かったのですが、ここでの見どころは最上階の展望室ですね。ここからは関ヶ原の古戦場を広く見渡すことができ、先ほど歩いて訪ねた場所の位置関係を改めて確認することができました。レンタサイクルもあるようなので、晴れていればまずここで自転車を借りて、騎馬武者の気分で古戦場巡りをするもの楽しそうです。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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