~愛知県・三重県 木曽三川あれこれ編~
2024.11.19
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
リンスタの小学4年生は、1学期のカリキュラムで日本各地のさまざまなくらしについて学んでいきます。そのなかの1つが「低い土地」での生活で、そこで取り上げられているのが愛知県と岐阜県に広がる濃尾平野です。
濃尾平野には、木曽三川と呼ばれる木曽川・長良川・揖斐川の3つの河川がかなり近いところを流れており、昔から水害の被害が多いところでした。そのような話を聞いた生徒たちは「なんでそんな水害ばかりのところにわざわざ住むの?」という疑問を持ちます。そこで、「低い土地というのは多くの米がとれる豊かな土地でもあるんだよ。だから人々は水害に対してさまざまな工夫をしてきたんだ!」というような感じで授業が始まっていくのです。
この木曽三川、これまで東海道新幹線や三重県方面に向かう電車で何度となく通過しているのですが、今回は歩いて渡ってみようと思い立ったのです。
当初の予定では、名古屋から電車に乗って弥冨駅まで行き、木曽川を渡って川に挟まれた低地として知られる長島町を散策、長良川と揖斐川を渡って桑名市まで歩くはずでした。
しかし、この日の中京地域の最高気温予想は38℃🥵 名古屋の街は、まだ朝だというのにすでにかなりの高温になっていて、名古屋駅から電車に乗って外の日差しを見ていた私はこんな不安を覚えたのです。
「長い橋の上は日差しを遮るものがないはず。こんな暑さのなかで2つの橋を無事に渡り切ることができるのか…😟」
そんなことを考えているうちにいつの間にか弥冨駅をスルーしてしまい、電車に乗ったまま木曽川を渡ってしまいました。…ということで今回は長島町を散策した後に長良川と揖斐川の2つを歩いて渡ることにしたのです。ちなみに、弥冨駅は日本一低い駅(海抜-0.93m)として知られている駅なので、またいつか訪問してみたいと思います。
最初に訪れた長島は、織田信長と激しい戦いをくり広げた一向一揆の地として知られています。
周囲を川に囲まれ、尾張国と伊勢国の間にあるこの地は、1501年に創建された願証寺を中心に一向宗の勢力が強く、近隣の武士勢力からは独立した存在となっていました。
信長は、各地の一向一揆と激しい戦いをしていますが、この長島での戦いは3度にもおよび、多くの家臣の犠牲の上でようやく勝利をおさめています。そんな戦いだったので、信長のストレスもたまっていたのでしょう。降伏して船で逃げ出した人は鉄砲で打たれ、砦に残っていた2万人余りが焼き殺されてしまったそうです。信長が残酷なイメージを持たれている1つの原因でしょうね。一揆の拠点となっていた願証寺には下の写真の碑が建てられており、犠牲者を弔っています。
さて、上の地図を見てもわかる通り、長島は周囲を堤防に囲まれた低い土地です。このような場所のことを輪中といいます。地図中の大部分が地図中では青色でしめされていますが、この部分は海面より低い土地になっています。まわりを囲む緑色の部分は高さが少し高くなっていて、この部分が堤防になっています。青色のなかに一部緑色のところがありますが、この部分は周囲よりも高い土地になっており、住宅が立ち並んでいます。下の写真で手前の水田と奥の石垣を比べてみればその高さの違いがわかると思いますが、低い位置を水田、高い位置を住宅にすることで水害の被害を防ごうとしているのです。これも低い土地にくらす人々の工夫の1つですね。実際に行ってみて、テキストに書いてある輪中の特徴がよくわかりました。
さて、いよいよ長良川と木曽川を渡ります。途中のコンビニで冷たい水を買って、準備万全で橋に向かっていきました。長良川と揖斐川に架かるこの橋は伊勢大橋と名付けられていて、1934年に供用が開始された歴史ある橋です。さすがに老朽化しているようで、橋の南側には新しい橋の橋脚がつくられていました。数年後には真新しい橋に生まれ変わるようです。橋の手前には河川名を示す標識がありますが、2つの河川を跨ぐこの橋には「ながら・いび川」と2つの名が記されていました。自動車の通るところとは別に、橋の両脇に歩行者スペースが設けられていますが、それが下の写真です。
見ての通り足元は鉄板、日差しを遮るものは何もありません。下の鉄板からの照り返しと上からの攻撃的な日差しのなかでの約1.1㎞の歩きはなかなか厳しいものでした。「やっぱり木曽川も渡るべきだったかなぁ…」なんて考えてもいたのですが、ここへ来てようやく木曽川をあきらめたことが正しかったのだということを実感したのです。
橋の南側には、テキストにも載っている長良川河口堰が見えました。
この河口堰、建設のときには激しい反対運動があったことを思い出しました。それまでの長良川は、本州でたった1つだけの、本流に堰が設けられていない大きな河川でした。この堰が建設された目的は洪水防止なのですが、自然のままの環境が破壊されることに懸念を持った人も多かったのですね。
自然の姿が失われてしまうことは確かにもったいないことなのかもしれませんが、いざというときのためにはこのような施設も必要なのでしょう。たった今低地の様子を見てきたばかりだったせいか、環境よりも低地に住む人々のくらしのほうが気になりました。もし海の水が逆流して、低い位置につくられた田んぼに流れ込んだししたら大変な被害になりますからね。
橋を渡り切ったところで振り返ってみると、こちら側の橋の入り口には「いび・ながらがわ」と、先ほどの順序が逆になった標識が確認できました。
今度は、揖斐川沿いを下流方向に向かって歩いていきます。少し進んだところから、今渡ってきた橋の姿を写真に撮ってみました。こうして見ると、なかなか美しい橋ですよね。新しい橋の建設により、この姿はもうすぐなくなってしまいます。その前に渡ることができて良かったと思うと、先ほどのここまでの疲労も少し薄らいでいくようでした。
が、しかし…ここからも暑かった🥵 川沿いの道にもまったく日陰がありません。先ほど買ったペットボトルの中身もすでに空。目的地まではおよそ1.5㎞、あと20分程度の辛抱です。
強い日差しに焼かれながら向かったのは〝七里の渡し〟です。
江戸時代の東海道は、愛知県名古屋市の宮宿と三重県桑名市の桑名宿の間が船で結ばれていました。その理由も木曽三川にあるのです。下の地図を見てもわかるように、宮宿から桑名宿に向かうには3つの川を越えなくてはなりません。下流に行くほど川幅は広くなるわけですから、陸路を行くには北へ迂回する必要があったはずです。
江戸時代の木曽三川は、現在よりも複雑な流れでした。おそらく洪水などによる流路の変化も激しかったでしょう。現在のように重機を使った土木工事ができないわけですから、ここに橋を架けていくというのは相当な難工事になります。また、難工事の末に橋を架けたとしても、木でできた橋は洪水が起これば壊れたり流されたりしてしまったはずです。さらに、江戸時代の海岸線は現在よりも内陸に入っていました。現在の地図を見ると、南へ迂回しなければならないように見えますが、当時はほぼまっすぐに進むことができたのです。つまり、川を渡るために北へ迂回するよりも、伊勢湾を船で行くのが宮宿と桑名宿を結ぶ最短ルートだったのです。
七里の渡しという名の由来は、その距離が七里(約27.5km)だったことで、宮から桑名までの所要時間はだいたい4時間だったそうです。ちなみに現在の名古屋~桑名間の所要時間は普通列車でも30分程度です。それまで徒歩で進んできた旅人にとっては、この船旅が一息つける時間だったのかもしれませんね。船旅を楽しんだ旅人たちは、上の写真の船着き場から再び陸路での旅を続けていくのです。
宮宿から桑名宿へはもう1つのルートがありました。まずは陸路で現在の愛知県愛西市にあった佐屋宿に向かいます。この先には木曽三川があり、やはりここに橋を架けることはできません。そこで、佐屋宿からは船で川を下って桑名宿に着いたそうです。ちなみにこの船のルートは〝三里の渡し〟とよばれていたそうです。七里の渡しが悪天候によって船を出せないときや、船旅が苦手な人たちはこちらルートを使ったようです。ただし、こちらを使った場合の宮~桑名間はほぼ一日がかりでした。七里の渡しと比べて、女性や子どもが選ぶことが多かったこの道は〝姫街道〟ともよばれています。七里の渡しは悪天候などによる欠航も多かったようで、姫街道も東西を結ぶ重要な交通路として多くの人が行き交っていたそうです。
いずれにしても昔の旅人は大変だったわけで、暑さに日和って徒歩ルートを短縮した自分が情けなくなってきました…。あっ、でも1つだけ言い訳しておきます。後日気象庁のホームページで確認したところ、この日の桑名市の最高気温は38.8℃だったんですよ💦
いつか木曽三川リベンジをしてみたいと思っています。…今度は夏以外の季節に。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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