白井亨(しらいとおる)

~千葉県佐倉市 老中の城と西洋医学編~

2024.10.11

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

社会の先生である私は、よく「おすすめの博物館はありますか?」という質問を受けます。
そんなときにいつも答える場所が2つあります。1つが、東京の両国にある江戸東京博物館です。江戸時代の人々の生活や、東京になってからの様々なできごとに関する展示はとても見応えがあるのですが、残念ながらこちらは改修工事がおこなわれており、2025年まで長期休館中です。
もう1つが、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(通称〝歴博〟)です。古代から現代までの日本の歴史について、史料をもとに細かく再現された模型などの多くの提示物を見ながら、歴史についての理解を深めることができます。東京からだと少し遠いですが、これから歴史を学ぶ小5のみなさんは、ぜひ足を運んでみるといいと思います。

現在、歴博が建っているところにあったのが、「老中の城」と呼ばれる佐倉城です。
千葉県佐倉市は、かつての江戸城であった皇居から見て東の方角になります。佐倉城は、江戸城を守るための東の拠点としてとても重要な位置にありました。そのため、佐倉城の城主となったのは徳川家譜代の大名で、そのうちの8人が老中の役職に就いています。
ちなみに、譜代大名とは「古くから徳川家の家臣として仕えてきた大名」のことで、江戸幕府の重要な役職にはこの譜代大名が就いていました。また、老中とは「江戸幕府の政務を取り仕切る最高責任者」のことで、いずれにしても江戸幕府や徳川家を支える重要な人物たちが、佐倉城の城主になっていたことがわかります。

歴博があるのは、佐倉城の椎木曲輪しいのきくるわと呼ばれていた場所で、江戸時代には城に使える武士たちの住まいがありました。城の中心部に入るところには椎木門しいのきもんがあり、門の前には角馬出しと呼ばれるコの字型の堀が復元されています。

この馬出しがあることで、敵は城内に続く門にまっすぐに攻め込めません。また、馬出しの内側から近づく敵を、内側から弓や鉄砲で攻撃することもできます。佐倉城の馬出しは整備されたものなので美しい姿をしていますが、東日本の多くの城で見られる設備です。馬出の周囲にはベンチなども置かれており、この日はおそらく歴博に来たと思われる中学生たちがお弁当を広げていました。

さて、ここからは佐倉城の城内に入っていくことにします。

佐倉城は、西を鹿島川、南を高崎川、北を印旛沼に囲まれた台地の先端に築かれています。印旛沼は江戸時代に干拓がおこなわれたので、おそらくその水辺はもっと城の近くにあったことでしょう。城の東側の台地上には、武士たちが住んだところや城下町があります。

城内に入ってしばらくすると二の丸に入っていき、道の両側には木々が生い茂っています。地図を見ると右手には空堀があるはずなのですが、木々に阻まれてよく見えません。地図で見ると立派な堀なのですが、とても残念です。
佐倉城の城主で、老中として日米修好通商条約の締結に尽力した堀田正睦ほったまさよしと、条約の交渉相手だったタウンゼント=ハリスの像の間の道を入り、本丸に向かいます。ここにも空堀があるはずなのですが、やっぱり木々に阻まれてよく見えません。二の門、一の門と進んで辿り着いた本丸は、さすがに老中の城だけあって広々とした場所です。高さのある土塁や、天守のあった場所を示す石碑などがありますが、興味のない人にはただの広場にしか見えないかもしれません。私は昔の城の図などを見て予習をしてきましたが、もう少し整備してもらえるとありがたいなぁ…と思いますね。
二の丸から三の丸に入り、その先のところでようやく空堀が見える場所がありました。この空堀、かなり幅は広く見えますね。もしかすると、幅については当時とあまり変わらないのかもしれません。ただ、深さはもっと深かったでしょうね。地図で見る限り、本丸と二の丸の空堀はもっと深そうなので、しっかり見ることができたらかなり迫力がありそうです。

佐倉城は、明治時代になってから陸軍の駐屯地が置かれ、その際に城内の建造物はすべて取り壊されたそうです。先ほどの空堀からしばらく進んだところには、城の入り口である大手門がありましたが、今は石碑と土塁が残るのみです。もちろん、大手門や天守などの建物の復元は、費用の面から容易ではないでしょう。しかし、せめて空堀だけでももう少し整備してもらえれば、佐倉城の当時の姿を想像しやすくなり、歴博を訪れた観光客も来てくれるのではないかと思うのです。先ほど紹介した角馬出は、埋め立てられていたものを発掘調査して復元したとのこと。城内の空堀はある程度その姿を留めているのですから、何とかならないものでしょうかねぇ…。先日訪問した水戸城は整備が進んでいただけに、とても残念に思いました。

さらに東へ進んで城下町に行く前に、武家屋敷に寄り道しようと思います。
大手門から武家屋敷に行くには、ちょっと年季の入った建物の体育館の手前を右に曲がるのですが、その道は体育館の駐車場と一体化していて、ちょっとわかりにくく感じました。
急な坂を下りて、これもまた観光スポットに続くとは思えないような谷間の細い道を進むと、下の写真のひよどり坂にたどり着きます。

この坂は〝サムライの古径こみち〟と呼ばれ、江戸時代には佐倉城へ通う武士たちが通ったそうです。当時と同じように美しい竹林に囲まれた姿で残る、とても風情のある坂道です。このような道ですから、正直言うとあまり人がいないほうが雰囲気は味わえると思います。訪れた日は土曜日だったのですが、ほとんど人に会うことはありませんでした。このままの静かな雰囲気であってほしいなぁとも思いますが、せっかくの観光資源なのになんだかもったいないなぁという気もします。

ひよどり坂を上った先にあるのが武家屋敷通りです。ここには佐倉藩に仕える多くの武士たちの屋敷がありました。現在は3棟の屋敷が公開されており、当時の武士たちの生活の様子を知ることができます。下の写真は通りに面した部分のものですが、高い土塁と生垣があることがわかります。もちろんこれは戦いに備えてのことでしょう。でも、平和な時代にはこんな効果もあったのではないかと思います。江戸時代の武士のくらしというのは意外につつましいものでした。プライドの高い武士たちは、そんな生活の様子を見られなくはなかったでしょう。この高い土塁と石垣は、そんな〝目隠し〟の役割も担っていたと思います。

自動車で佐倉にやってきた場合、ひよどり坂や武家屋敷を訪れるには佐倉城の大手門近くにある駐車場に止めて来るしかありません。歩けば10分程度ですが、前述したとおりその道のりはあまりわかりやすいものではありません。あくまでも個人の意見ですが、佐倉城と同様にもう少し整備をしていただいたほうがいいんじゃないかなぁ…と思いました。

武家屋敷から城下町を抜け、30分ほど歩き、町の東にある佐倉順天堂記念館まで足を延ばしてみました。
城下町は、城の防御のために設けられたクランクの道があったり、古くから営んでいることが想像できるお店があったりと、なかなか風情のある街並みが残っています。今回はその先に目的地があったのでゆっくり見られなかったのですが、いずれまた訪問してみたいと思います。

日々の通勤電車の中から、御茶ノ水にある順天堂大学や病院の大きな建物を目にしていますが、そのルーツのなったのがここ佐倉の地だったのです。
1843年、先ほど佐倉城のところで紹介した佐倉藩主堀田正睦は、長崎で西洋医学を学んだ佐藤泰然たいぜんを佐倉に招きます。そして病院兼西洋医学塾として開かれたのが佐倉順天堂です。当時としては最高水準の外科手術がおこなわれており、全国各地から多くの塾生がこの地で学んでいたそうです。幕末のころは「西の長崎、東の佐倉」と言われたほど、西洋医学の最先端を学べるところがこの佐倉順天堂で、明治の医学を支える多くの優秀な人材がここから巣立っていったのです。
記念館の建物は、1858年に建てられたものを整備したもので、当時の手術の道具など貴重な資料が展示されていました。できたころには入院の設備はなく、患者たちは近くの旅館に宿泊して治療を受けていたそうです。その後、病院は拡張されて入院するための病棟もつくられました。展示されている復元模型を見ると、広い敷地に様々な建物が建てられており、現在でいう総合病院のような感じだったのでしょうね。

ところで、幕末の歴史に関する本を読んでいると新選組の隊士や戊辰戦争の負傷者の治療をおこなった松本良順りょうじゅんという人物を目にします。健康増進のために牛乳を飲むことや海水浴をすることを、日本人の生活の中に定着させたことでも知られています。この松本良順が、順天堂を開いた佐藤泰然の次男だということを、今回初めて知りました。まだまだ知らないことはたくさんありますね。
他に見学者もいなかったため、案内の方といろいろな歴史の話をすることができ、とても有意義な時間を過ごすことができました。どちらかというと、1人で静かに自分のペースで見学するのが好きなほうなのですが、ときには様々な説明を受けながら見るのもいいなぁと思ったのです。
しかし、ここにたどり着くのも意外に大変です。京成佐倉駅からならバスに乗ってくることができるのですが、歴博から直接来ようと思うと、徒歩で30分歩くかタクシーに乗るしかありません。駐車スペースもわずかしかないので、自動車で行くのも不便です。城下町をゆっくり散策しながら歩くのは楽しいのですが、億劫おっくうだと思う人も少なくないでしょうね。

歴博には年間20万人程度の来場者があるそうです。佐倉にはここまで紹介したもの以外にも素敵なスポットがあるのに、せっかくの観光資源が活かされていないように思いました。もちろんお金のかかることなので難しいのかもしれませんが、佐倉城の濠や土塁の整備、徒歩で巡る人が歩きやすい道の整備、あるいは観光スポットを巡るコミュニティバスの運行など、できることがたくさんあるように思えます。成田も近いのだから、インバウンドにもアピールできるかもしれません。佐倉市の今後の奮起を期待したいですね。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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