白井亨(しらいとおる)

~東京都青梅市 扇の要はネコの街編~

2024.10.04

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

東京のお台場にある青海あおみ駅に行こうとした人が、まちがって青梅おうめ駅に着いてしまって途方に暮れたという、嘘のような本当の話があります。私からすれば「なんで途中で気づかないんだよっ!」と思いっきり突っ込みたくなるような話なのですが、それほど青梅市は海からはなれたところにあるのです。

下の地図を見てください。青梅市は多摩川の上流にあり、西側にある山間部と、東側にある開けた土地の境目にあることがわかります。

西から東に向かって、地図の色をよく見てください。青梅市付近では黄色っぽい色だったのが、東に行くにつれて緑色になっていくのがわかるでしょうか。青梅市のあたりから始まる比較的平坦な土地は、少しずつ標高を下げながら東京都心部に向かっているのです。

では、青梅市付近をもう少し拡大してみましょう。この地図を見て気づくことはありませんか?

青梅駅のあたりを中心として、東に向かって扇形に開けた土地が確認できるはずです。もうわかりますよね。この地形は多摩川がつくった扇状地なのです。この扇状地の上に、火山灰が積もってできた関東ロームという地層があり、武蔵野台地や山の手台地をつくっているんですね。青梅は、大都会東京に続く〝扇の要〟の地と言ってもいいのではないでしょうか。
こんな場所にある青梅駅と、海沿いの埋め立て地にある青海駅をまちがえるなんて、やっぱりあり得ないことなんですよ。

東京駅から1時間と少し、右側の車窓に山が迫ってきたところで青梅駅に到着しました。電車内には、これから多摩川上流のほうにハイキングに向かう観光客が多く見られました。青梅駅の駅舎もとてもレトロな感じでよい雰囲気です。
まずは青梅という地名がついた理由がわかる場所に行ってみようと思います。
駅から旧青梅街道を西に進み、左に折れて坂を下ったところにあるのが金剛寺という寺院です。境内には下の写真の梅の木があり、「将門誓いの梅」と名付けられています。

今から1000年以上前の平安時代、この地を訪れた平将門たいらのまさかどが、馬の鞭に使っていた梅の枝を、「願いが叶うならば栄え、叶わぬなら枯れよ」と地面に刺したそうです。すると梅の木はここに根付き、実をつけるようになりました。しかし、その実は熟することなく青梅のまま落ちない梅の木となったということから青梅の名がついたそうです。

江戸時代の青梅は、青梅街道の宿場町として賑わっていました。この道が整備されたのは江戸時代の初めのことで、この近辺で産出された石灰を運ぶことが目的でした。この頃、江戸城の改修工事がおこなわれており、その城壁に塗るための漆喰しっくいの原料として必要だったのが石灰だったのです。江戸に続く扇状地の始まり地である青梅は、江戸とのつながりで発展のきっかけを得たということですね。
その後、青梅街道は一般の旅人も利用する道になりました。江戸から甲府に向かう道としては甲州街道があるのですが、途中に関所がない青梅街道を使う人も多かったのだそうです。
また、江戸時代の青梅は、青梅じまや青梅夜具地やぐじという織物の産地としても知られていたそうです。夜具地というのは布団ふとんの布地のことで、青梅夜具地は全国各地で使われていたそうです。青梅の町には多くの商人も住んでおり、旧青梅街道沿いでは下の写真のような古い建物を見ることができました。

さて、せっかくなので多摩川を見に行こうと思い、金剛寺を後にしました。先ほど、旧青梅街道から坂を下って金剛寺に着いたと書きましたが、青梅の町はこのような段差がいくつかあるのです。下の地図を見ても、高低差がよくわかると思います。

金剛寺から南に向かって歩いていくと、下の写真のような2つ目の坂がありました。写真で伝わるかどうかわかりませんが、なかなかの急坂なのですよ。

坂を下ると国道411号線に出て、道を渡るとまたすぐに下り坂があります。その坂を下り切ったところにあったのが、多摩川に架かる柳淵橋です。橋の上から見下ろせる多摩川の河原では、多くの人がバーベキューや川遊びを楽しんでいました。

さて、青梅駅からここまでいくつの段差があったのでしょうね? もう一度ここまでの道のりを思い返してみましょう。
青梅駅や旧青梅街道があったところを1段目とします。そこから坂を下って金剛寺に着いたのですから、この寺があるところが2段目となります。さらに坂を下って行った国道411号が通っているところが3段目。そしてもう1つ坂を下ったところにある柳淵橋が4段目。多摩川の河原は橋から見下ろせるわけですから5段目となります。つまり、青梅の街は5つの狭い平地と4つの坂によってできているということです。
このように、平坦な地形と急な斜面が交互に出てくる地形のことを河岸段丘といいます。もちろんこの河岸段丘は多摩川がつくったものです。橋の上から見た多摩川の流れからは想像できませんが、昔はもっと激しい流れの川だったのかもしれませんね。
地図と照らし合わせながら河岸段丘の段差を楽しんでいましたが、ここまできてようやく気付いたのです。
「駅に戻るには坂を4つ上らなければいけないんだ…。」 はぁ~…😥

汗をぬぐいながら坂を上って、再び旧青梅街道に戻ってきました。先ほどは駅から西の方向に進んだので、今度は東に行ってみました。こちらは昔ながらの商店街という感じで、歴史を感じさせる商店などもある、とてもよい雰囲気の通りでした。そして、その道のあちらこちらでは、たくさんのネコたちが出迎えてくれたのです!

かつての青梅というと、駅や町中のあちこちに昭和時代の映画の看板が掲げられており、昭和レトロの街として知られていましたが、どうやらいつの間にかネコの街に様変わりしていたようです。下に3枚の写真の他にもいろいろなネコたちがいるので、歩きながらそれらを探すのも楽しかったですね。

ところで、なぜ青梅はネコの街になったのでしょうか?

先ほど、かつての青梅は織物の生産がさかんだったということを書きました。この地でつくられていた青梅縞は絹と綿を織り交ぜた織物だったので、絹の原料となるかいこまゆを生産する養蚕もさかんでした。養蚕を営む人の天敵となっていたのがネズミだったので、それを退治してくれるネコがとても大事にされてきたのだそうです。また、商人も多く住む宿場町だった青梅では、商売繁盛の縁起物として招きネコを置く店も多かったのだとか…。もともとあったレトロな町並みとネコの相性もよかったそうで、徐々に写真のようなネコ作品が増えていったのだそうです。

いろいろと魅力の多い青梅でしたが、駅前では14階建てのマンションが建設中でした。考えてみれば、新宿まで1時間程度で行かれるわけですから、十分にベッドタウンとしても成り立つわけですね。このマンションが完成した後、この街はどのように変わっていくのでしょう?

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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