白井亨(しらいとおる)

~東京都立川市 立の河と不思議な市境編~

2024.09.13

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

東京都立川市は、多摩地域中部に位置する人口約185000人の都市です。
甲府や松本方面に向かう中央本線の特急に乗ると、すべての列車が立川駅に停車しますので、沿線でも利用者の多い駅の1つなのでしょうね。何度も通過しているこの駅には一度も降り立ったことがなかったのですが、今回はこの街をテーマにしていこうと思います。

降り立った立川駅は、上の写真のように立派な駅ビルを併設した大きな駅でした。駅ナカにはさまざまなお店があり、たくさんの人で賑わっています。
駅の周囲を見渡すと、商業施設も数多くあり、路線バスもひっきりなしに発着しています。でも、この駅の風景のいちばんの特徴は、下の写真のモノレールではないでしょうか。背後にある高層ビルとのコラボは、なんとなく近未来的な風景だと思いませんか?

下の地図で立川市の位置を確かめてみましょう。
新宿駅から立川駅までは直線距離で25㎞ほど、中央線の特別快速に乗ると25分ほどで到着します。北には狭山丘陵、南には多摩丘陵がありますが、立川市内はほぼ平坦な土地になっています。市の南を東西方向に流れる多摩川に沿ったところは、川が削ってできた崖のような地形が見られます。南東方向には、かつて武蔵国の国府があった府中市があります。

立川という地名は、武蔵国府から見る多摩丘陵を〝多摩の横山〟と呼び、その多摩の横山に対して縦に流れている多摩川を〝立の河〟と呼んでいたこと由来するそうです。
多摩丘陵は東西方向に伸びているので納得できますが、多摩川も立川市付近では東西方向に流れています。これを「縦」と呼ぶのは何となく違和感を覚えました。ただ、横=東西、縦=南北という概念を捨てれば、このような考え方もできるかもしれません。武蔵国府から西の方角を向いてみれば、多摩丘陵が横に見えます。すると、多摩川は正面のほうから流れてくるように見えるので、横の多摩丘陵に対して縦に向かってくる多摩川ということになります。多摩川が流れてくる方向に立川市があるので、これが地名の由来ということなのでしょうかね。

なんとなく釈然としないまま地図を眺めていると、立川駅の西に残堀川という川があることに気づいたのです。何か所か不自然な曲がり方をしているところは流路がつけかえられた結果でしょうけど、全体を見れば南北方向に流れていますよね。

考えてみれば、北にある狭山丘陵から南ある多摩川の低地に向かって少しずつ標高も低くなっているはずで、北から南へ流れる川があっても不思議ではありません。残堀川は下の写真のような小さな川ですが、昔のこの地には、他にもいくつかの南北方向の川、つまり〝立の河〟があったのかもしれません。この地の名を称する豪族立川氏の館跡が残堀川沿いにあるのも偶然ではないのかもしれないですね。

以前のブログ(東京都 JR中央線 くねくねからまっすぐ編)で、中央線の線路が東中野駅からこの立川駅までまっすぐ伸びていることを紹介しました。今でこそこのような大きな街になっていますが、鉄道が開通したころの地図を見ると、駅の北側の道沿いにわずかな集落があるだけで、周囲には一面の桑畑と雑木林が広がっています。明治時代末期になると、鉄道の開通の効果によって東西方向だけだった集落が南北方向にも伸びていきますが、まだまだ桑畑と雑木林が多くを占めています。1922年、何もなかった立川に、陸軍の立川飛行場が設置されます。飛行場の周りにはさまざまな施設もつくられ、これが立川市の発展の一因になるのです。

昔の地図をどうやって見ているのかが気になる人もいるかもしれませんね。
私がよく見ているのは「今昔マップ」というホームページです。このホームページでは、全国の主要都市周辺の昔の地図を今の地図を比較しながら見ることができます。もし興味があったら、ぜひ一度見てみてください。

この地図を見ると立川市の地図におもしろい変化があるのに気づきます。飛行場ができたころの地図には、「飛行場」「格納庫」などの文字が見られるのですが、1940年代の地図はそこがすべて空白になっています。その理由は軍事施設の位置が敵に知られるのを避けるためなのですが、こんなことからも戦争が近づいていたのだということが読み取れるのですね。
太平洋戦争後、立川飛行場は米軍基地となりますが1977年に返還され、現在は昭和記念公園となって人々の憩いの場になっています。

さて、今度は立川駅の東の方に目を向けてみます。すると、自転車専用道路と書かれた不自然に曲がった道があることに気づきました。

この道は、自転車専用道路というよりは散歩をする人々が行きかう緑道でした。こういう道はもともと川が流れていたところが暗渠となっていることが多いので「これも〝立の河〟か」と思ったのですが、実際に行って見るとちょっと様子が違いました。下の写真ではよくわからないのですが、この道は周囲の土地よりも少し高い位置にあるのです。

実はこの緑道、かつて立川飛行場へ物資を運ぶために敷かれていた鉄道の廃線跡でした。立川駅の東側で中央線と分かれた線路は、反時計回りにぐるっと大回りして立川飛行場へと向かっていました。
緑道を歩き始めてしばらくするとおもしろいことに気づいたのです。緑道が始まるところの住所は国立市でしたが、しばらく歩くと国分寺市に入りました。さらに進んでいくとまた市境を越えて、今度は立川市に入ります。その間にかかった時間はおそらく5分くらいでしょう。たった5分の間に3つの市を通るということは、このあたりの市境はかなり複雑に入り組んでいるということですね。

それを確かめようと地図を見てみるとさらにおもしろいことになっていました。先ほどの地図中の「弁天通り」に沿って、立川市と国分寺市が出っ張ったり引っ込んだりしているところがあります。先ほどの地図ではちょっとわかりにくいので、市境がわかりやすい地図を示しておきます。

国分寺市から立川市に入ったと思うと、100mも進まないうちにまた国分寺市に戻ったり、歩道の左側は立川市なのに向こうから来る自動車が走っている道路は国分寺市だったりと、地図で眺めながら「今歩いているのはどっちなのか」と歩くのはとても愉快でした。
でも、なぜこのような複雑な境になったのでしょう?
よくあるパターンとしては、かつて川が流れていてその流路が変わったというものや、土地の高低差に沿っているといったものでしょう。でも、さすがにこんなにカクカクとした川の流れはないでしょうし、道も平坦で高低差はありませんでした。いろいろと調べてみたのですが、残念ながらはっきりとしたことはわかりませんでした。

最後に市境に関する話題をもう1つだけ。
下の写真の西国立駅は、立川駅からJR南武線で1つ目の駅です。

この駅の所在地は「立川市羽衣町一丁目」となっており、国立という名がついていながら立川市にある駅なんです。駅から国立市との境までは500mほどあるので、目の前に国立市があるというわけでもありません。立川駅の東にある立川市内の駅なんだから「東立川」という名のほうが自然だと思うのですが、不思議ですよね。

実は、1944年まで立川駅と西国立駅の間にはもう1つの駅がありました。その駅名が東立川駅だったのです。立川駅と西国立駅の間の距離は1.2㎞程度ですので、この間に駅があったらその駅間は数百メートルしかないことになり、さすがに鉄道の駅としては近すぎたんでしょうね。
駅の位置からすると、西国立駅を使う人の多くは立川市民ではないかと思います。駅名を変更するような要望とかはないんですかね?

初めて散策した街には、いろんな「?」がありました。これだから街歩きはやめられませんね。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

前回の記事はこちら

  • 小学生
  • グループ指導
  • 個別指導

イベント・コラム・ブログ一覧へ

お問い合わせ

受験や学習に関するご相談など、お気軽にお問い合わせください。
各種オンライン説明会も実施中です。

お電話でのお問い合わせ

0120-122-853
月~土 11:00~19:00