白井亨(しらいとおる)

~茨城県水戸市 幕末のプロローグ編~

2024.09.05

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

前回に引き続き、茨城県水戸市を散策します。

水戸という地名から多くの人が連想するのは、水戸黄門と水戸納豆ではないでしょうか。JR水戸駅には、北口に水戸黄門像、南口に納豆記念碑が設置されています。このようなモニュメントが置かれているということは、やはりどちらも水戸のシンボルと言っていいのでしょうね。
さすがに納豆をテーマにするのはちょっと難しいなぁ…でも、納豆について何も触れないのも申し訳ないので1つだけ…。水戸納豆が有名になったのは、明治時代に鉄道が開通したときに、水戸駅のホームで売るようになったからだそうです。お土産として納豆を買った人たちの口コミで、水戸といえば納豆というイメージが定着したようですね。もちろん私もお土産に購入しましたよ。

さて、水戸黄門こと徳川光圀みつくには、徳川御三家の1つである水戸徳川家の2代藩主です。御三家というのは将軍に跡継ぎがいなくなったときのことを想定して創設された家のことです。テレビドラマでは、この像のようにお供の助さん格さんを連れて諸国を旅して世直しをしたとなっていますが、この時代の高い身分の人が自由にあっちこっちに行かれるわけがないですよね。では、光圀はどうしてそんなにも有名になったのでしょうね?
もちろん藩主ですから、貧民の救済や上水道の整備など、水戸藩の人々のための業績はあります。でも、光圀のしたことで特筆すべきものは、やはり『大日本史』の編纂へんさんではないでしょうか。『大日本史』は、その名が示す通り、日本の歴史を記した書物です。この歴史書の大きな特徴は、初代の神武天皇から第100代の後小松天皇の、それぞれの天皇の時代について記述されているということです。江戸時代は武士の時代ですし、光圀自身も徳川家の人間ですから、天皇に目を向けたというのは何となく違和感がありますね。

徳川御三家ではあっても、水戸家は尾張家や紀伊家と比べて格下の存在でした。石高こくだかは尾張62万石、紀伊56万石に対し、水戸は35万石です。また、藩主の官位も尾張と紀伊は大納言なのに水戸は中納言です。ちなみに、水戸黄門の黄門というのは中納言の中国風の名称のことだそうです。石高も少なく官位も低いのに、御三家の1つとしての対面を保つ必要があるわけですから、財政的な負担は大きかったでしょう。また、水戸藩主は常に江戸にいて将軍を補佐するという役割があったため、水戸と江戸の両方に行政のための組織が必要になります。このことも水戸藩の財政が苦しくなった要因でしょう。水戸藩は北の大名たちへの備えという役割も大きかったので、軍事費もかかりそうですね。非常に苦しい状況に置かれた水戸藩では、藩士たちの生活も大変だったことが想像できます。

また、徳川家康は「水戸藩から将軍を出してはいけない」と遺言したといいます。家康に仕えた僧天海が「水戸藩より世継ぎを迎えるときに徳川家は終わる」と遺言したという話もあります。実際にはどちらの遺言も真偽のほどは定かでないのですが、水戸藩からは将軍は出せないという見方をされていたのはまちがいないようですね。
水戸藩の人々のなかには、将軍にもなれない格下の存在にされているのになぜこんな苦しい状況に耐えなければいけないんだという不満を持つ人々もいたことでしょう。そのような状況の藩内をまとめるために、光圀は天皇の存在に目を付けたのです。「徳川将軍家は天皇から任命されたものなので、将軍に尽くすことは、遥か昔からこの国を治めている尊い天皇のためである。将軍に使える我々は世に誇るべき存在なのだ。」ということを納得させ、藩士たちの不満を抑えるための手段が『大日本史』の編纂という大仕事だったのです。『大日本史』が完成するのは、なんと二百数十年後の明治時代になってからだそうです。

光圀は『大日本史』のための資料を集めるため、家臣たちを日本全国に派遣しました。家臣たちが訪れた地には光圀からの書状が残っています。そのため、ドラマの「水戸黄門」では、光圀自身が日本各地を旅して世直しをしたという設定になっているのです。光圀が派遣した家臣のなかに、佐々介三郎さっさすけさぶろう安積覚兵衛あさかかくべえという人がいて、この2人がお供の助さん格さんのモデルなのだそうです。

さて、光圀の時代から百数十年後の江戸時代後期、水戸藩の第9代藩主となった徳川斉昭なりあきは積極的に藩政改革をおこないます。その1つとして開設されたのが、日本最大規模の藩校とされる弘道館こうどうかんです。ここでは水戸藩士とその子弟が、学問と武芸を学びました。

弘道館があるのは水戸城の三の丸です。前回のブログでも紹介しましたが、三の丸は藩の重臣たちの住居がありました。斉昭はそれらの重臣たちの屋敷をわざわざ移転させて藩校を建てたのです。このことからも、いかに斉昭が藩士の教育の重要視していたかということが伺えます。弘道館への入学は15歳からで、なんと40歳になるまで就学の義務がありました。40歳以上は通学の義務がなくなりますが、卒業という概念はなかったようです。

幕末の歴史を学ぶ上でのキーワードの1つに「尊王攘夷そんのうじょうい」という言葉があります。リンスタのテキストには、尊王攘夷とは「天皇に政治の中心を取りもどし(尊王),外国を打ち払う(攘夷)という考え」と説明されており、その中心となったのは薩摩藩と長州藩と書かれています。しかし、尊王攘夷の始まりは水戸藩なのです。

1824年、水戸藩内である事件が起こります。現在の北茨城市の浜に、捕鯨船の乗組員だったイギリス人が上陸し、水や食料を求めました。それに対して幕府は、イギリス人の要求をそのまま受け入れ、水や食料を与えた上で船に返すという対応をしました。水戸藩では、幕府の対応が弱腰であるとして「攘夷」という思想が強くなっていきます。これが、水戸藩の「尊王」思想と結びついて生まれたのが、幕末を動かした「尊王攘夷」というスローガンなのです。
弘道館の入り口の奥には、尊王攘夷を表す下の写真のような書が掲げられています。

弘道館で学んだ水戸藩士たちは尊王攘夷の理念を学び、やがてその思想は幕末の歴史を動かす吉田松陰や西郷隆盛に引き継がれていくのです。幕末の主役というと薩摩藩や長州藩がよく知られていますが、水戸は尊王攘夷の思想を生んだ「幕末のプロロークの地」と言うべきところなのです。
しかし、水戸藩は早過ぎました。尊王攘夷の思想は過激化していき、それによる藩内の対立も激化してしまいます。統制の効かなくなった藩士たちは、桜田門外の変や天狗党の乱といった事件を起こし、多くの貴重な人材が失われてしまったのです。

斉昭がつくったもので、水戸の名所になっているものがもう1つあります。それが、日本三名園の1つに数えられている偕楽園です。偕楽園の名の由来は「藩の領民と〝とも〟に〝楽〟しむ場にしたい」という斉昭の願いが込められています。また、弘道館で日々文武や学問に勤しむ藩士たちの憩いの場にしたいということもあったようです。弘道館から偕楽園の表門までは徒歩30分程度の距離ですので、勉強に疲れた頭と身体をほぐすのにちょうどよかったかもしれないですね。

偕楽園への入り口は4つあり、多くの観光客は大きな駐車場が近い東門から入っていくようです。自動車で行くにも、水戸駅からバスで行くにも便利なのは東門です。東門の近くにはお土産屋さんや食事のできる店もあります。しかし、みなさんが偕楽園を訪れたときは、ぜひ表門から入ってみてください。あまり観光地らしくない道を10分程歩かなければならないのですが、偕楽園の魅力はここから入るのがいちばんわかりやすいと思います。

下の写真は、表門を入ったところで撮ったものです。
偕楽園というと梅の花を連想する人が多いと思いますが、この写真からはそのようなイメージとは異なる感じがしませんか。実はこの木戸の先にある鬱蒼うっそうとした緑がポイントなのです。

門の先には立派な竹林が広がっています。さらに進んでいくと杉と笹の森林の間を抜けていきます。木々が光と風景の広がりをさえぎっています。緑にいやされながら、ゆっくりと歩き続けた先にあるのが、斉昭自身が設計したという好文亭こうぶんていという建物です。三階建てのこの建物に上がると、目の前には広々とした明るい風景が広がるのです。

それまで木々によって隠されていた空が視界いっぱいに広がります。眼下の千波湖はキラキラと輝いて見えます。この風景の変化が偕楽園の魅力の1つで、個人的にはこの雰囲気がとても好きなのです。私が訪問したこの日は、少々風が強かったせいか空はとても澄んでいて、いつも以上にこの落差を楽しむことができたのです。

さて、斉昭の七男にあたるのが江戸幕府の15代将軍徳川慶喜よしのぶです。水戸藩から将軍は出せないことになっていたのですが、慶喜は一橋家の養子になっていたので将軍になることができました。斉昭の子ですから、もともとは水戸藩の出身ということですね。先ほどの天海の遺言を思い出してみてください。江戸幕府は水戸藩出身の慶喜を最後に滅亡したのです。
もちろん、予言についてはそのまま信じることはできませんが、水戸藩出身の慶喜が将軍になったことで江戸幕府が滅びたというのは偶然ではない気がします。
水戸で育った慶喜は、幼いころから弘道館で学んでいました。当然、慶喜の心には「尊王」の2文字が沁みついていたはずです。おそらく、大政奉還をおこなった慶喜は、「政権を返しても強大な経済力と軍事力を持つ徳川家が政治の中心でいられるはずだ」という考えを持っていたと思います。しかし、その後起こった鳥羽・伏見の戦いで、薩摩や長州を中心とする新政府軍は、天皇の軍隊であることを示す「錦の御旗」を掲げます。これにより、新政府軍を攻撃するということは天皇に敵対するということになってしまいます。尊王の心が強い慶喜にとって、天皇の敵になることは耐え難かったのでしょう。この後、大阪城にいた慶喜は、城を脱出して江戸に退却してしまうのです。幕府軍に戦える力はまだまだあったはずで、家臣のなかにも抗戦を主張する者が多くいました。しかし、慶喜はひたすら謹慎します。もし、その時の将軍が水戸藩出身でなく、尊王の考えが薄い人物だったら、歴史は変わっていたのかもしれません。そう考えると、「水戸藩より世継ぎを迎えるときに徳川家は終わる」という天海の予言もあながち嘘だとは言えないように思えますね。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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