~千葉県香取市 北総の小江戸編~
2024.07.19
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
みなさんは〝小江戸三市〟というのを聞いたことがあるでしょうか。
1つ目は埼玉県川越市で、これはよく知られていますよね。新宿から川越に向かう西武鉄道の特急の愛称も小江戸号というくらいですから、小江戸というと川越をイメージする人は多いでしょう。2つ目は以前のブログ(栃木県栃木市 ちょっと残念な風情ある町編)で紹介した栃木県栃木市、そして3つ目が今回紹介する千葉県香取市です。ちなみに、小江戸というのは、「古い町並みや武家屋敷など江戸時代の面影を残す町」のことです。
香取市は千葉県の北部に位置し、県庁所在地の千葉市からは北東に50㎞ほどのところです。4つの市町(佐原市、栗源町、小見川町、山田町)の合併によって2006年に誕生した比較的新しい市なのですが、ここにはとても古くからの歴史があるのです。
この地で最も古くからの歴史があるものといえば、東国三社の1つにも数えられている香取神宮でしょう。言い伝えによると、この神社ができたのは初代の天皇である神武天皇のころだそうです。さすがにこれはそのまま信じられない感じですが、8世紀の初めごろに成立した『常陸国風土記』に書かれているそうなので、少なくとも1000年以上の歴史があることは間違いなさそうです。ただ、今回のテーマは小江戸ですから、香取神宮についてはまたの機会に紹介したいと思っています。
さて、「北総の小江戸」と呼ばれたのが、香取市の中心にもなっている佐原です。
現在の佐原は、どちらかというと静かな地方都市といった風情の町です。休日には多くの観光客が訪れるのでしょうが、この日は平日だったこともあり、町全体がとても静かな雰囲気でした。町の玄関口となるJR佐原駅も、普通列車が1時間に1本程度しかやって来ないローカル駅です。
しかし、江戸時代の佐原は「お江戸見たけりゃ佐原へおいで 佐原本町 江戸まさり」と謳われたほどに賑わいました。今でも下の写真のような街並みが残され、その繁栄を偲ぶことができます。なぜ、江戸時代の佐原はそれほどまでの賑わいを見せていたのでしょうか?
繁栄のきっかけの1つになったのが、徳川家康による利根川東遷事業です。
現在の利根川は、群馬県を源流とし、途中で渡良瀬川、鬼怒川などの河川を合流して銚子市に河口がある河川です。しかし、かつての利根川河口は東京湾にありました。銚子に河口があったのは栃木県から流れてくる鬼怒川で、2つの河川は交わることのない別々の流れだったのです。
1590年、当時の天下人豊臣秀吉の命令により、家康は江戸城に入りました。そのときの江戸は、広大な湿地が広がる寂しい土地でした。湿地が広がっている大きな原因となっていたのが、度重なる利根川の洪水でした。これを何とかしなければ、江戸の発展はないと考えた家康は、江戸の町を洪水から守るため、利根川の流れを東に向け、鬼怒川とつなぐことで太平洋に流れこむようにするという大工事を実行します。
幕府が開かれた江戸の町の人口はどんどん増加していきます。それとともに、人々の生活に必要な物資の確保も重要になってきます。鉄道や自動車がなかった江戸時代の大量輸送手段といえば水運です。流れが変えられた利根川は、巨大都市となった江戸へ物資を運ぶための重要なルートとなったのです。
東北地方で生産された米などの物資を江戸に輸送するには、太平洋を南下して東京湾に入るルートが考えられます。しかし、エンジンのない昔の船は風や潮の流れによってその航行が制限されてしまいます。房総半島沖には黒潮の流れがあります。南下する船はこの流れに逆らうことになります。また、犬吠埼沖の海は荒れることが多く、霧の発生も多かったことから海の難所とされていました。そこで、銚子で川船に荷物を積みかえて、利根川を遡って江戸に向かう「内川廻し」と呼ばれるルートが、江戸への物資輸送として利用されるようになったのです。
しかし、大河である利根川の沿岸に物流の拠点をつくることは困難です。現在のように頑丈なコンクリートの護岸をつくれないし、ダムなどの治水対策がされているわけでもありません。川の水量によって水辺の位置も変わるでしょうし、川が運んできた土砂によっても川の姿も変化するでしょうからね。
幸いなことに、佐原の町には南側の丘陵地から利根川に注ぐ小野川という小さな川が流れています。人々は小野川の護岸を整備し、ここに物流拠点となる町を築いたのです。
また、利根川沿いの低地には多くの水田があり、この地域は穀倉地帯でもありました。米は食料として運ばれるだけでなく、酒や味噌などをつくる醸造業の原料にもなりました。また、銚子は今でも醤油の産地として有名ですが、その製造が始まったもの江戸時代の初期だそうです。
米・酒・味噌・醤油は江戸に輸送され佐原の町に多くの富をもたらしました。また、江戸からは当時の最先端の物や文化が佐原の町に入ってきました。それが、先ほど紹介した「お江戸見たけりゃ佐原へおいで 佐原本町 江戸まさり」と言われる賑わいに繋がったのですね。
さて、佐原といえば、江戸時代末期に正確な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬を思い出す人も多いでしょう。この人物も、もともとは佐原の商人です。伊能家は酒造業などを営む、佐原でも有数の商家でした。ところが、忠敬が家を継いだころの伊能家の商売はあまりうまくいっていなかったそうです。その伊能家を再び繫栄させたというのですから、地図を作っただけでなく、商人としても才能のある人だったのでしょうね。
忠敬が隠居して天体や測量の勉強を始めたのは50歳のときだそうです。今でこそ50歳はまだまだ働き盛りですが、平均寿命も短かった昔の50歳は、今の感覚で言えば高齢者でしょう。それだけでもすごいと思うのですが、彼が日本地図を作成するために測量の旅に出るのは、なんと55歳のときだそうです。それから長い年月をかけて日本中を測量し、73歳で亡くなります。地図が完成するのは忠敬死去後のことになりますが、彼の情熱とエネルギーには驚かされますね。小野川沿いの伝統的建造物群保存地区には忠敬の家が当時の姿のまま保存されています。佐原駅から徒歩5分ほどの公園には立派な銅像も建てられており、小野川に架かる橋にも「忠敬橋」と名付けられています。佐原の町と伊能忠敬は切り離せないということなのでしょうね。
佐原の繁栄は、明治時代になってからも続きます。小野川沿いには江戸時代の姿をとどめた建物が多いですが、街道沿いには下の写真のような洋風の建物も残されています。
佐原に鉄道が通ったのは1898年のことでした。それまで、利根川を遡って輸送されていた物資は、佐原駅から鉄道で輸送されるようになります。利根川から江戸川を経由するルートは遠回りでもあり、船と鉄道のスピードの差もありますので、輸送にかかる時間は大幅に短くなったでしょう。佐原は、利根川流域の千葉県・茨城県の各地から船で集められた物資の中継地として繁栄していったのです。佐原駅の北側には、小野川と繋がる港もつくられました。下の2枚の写真は、上が現在の、下が1960年代の佐原駅周辺のものです。駅の北側に大きな水面があり、それが小野川と繋がっていることがわかります。
この港は1975年に埋め立てられ、現在はコミュニティセンターや駐車場として利用されています。2つの写真を見比べてみると、敷地の形に昔の港や水路の形を見ることができますね。
東京からだと少々時間はかかりますが、町散策をするのにとても魅力的な町の1つだと思います。
町のレストランには「ジクセル」という謎のグルメもあるそうですよ。街歩きの後にその正体を突き止めてみるというものいいかもしれません。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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