白井亨(しらいとおる)

~群馬県富岡市 静かな町の鉄道と世界遺産編~

2024.07.16

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

ここ3回ほど群馬県をテーマにしてきましたが、みなさんは群馬県というと何を思い浮かべるでしょうか?
日本三名泉の1つ草津温泉でしょうか。それとも名産品のこんにゃくでしょうか。あるいは嬬恋村のキャベツでしょうか。魅力的な場所も多い群馬県ですが、社会の先生としては富岡製糸場を外すわけにはいきません。ということで、群馬シリーズの最後は、世界遺産富岡製糸場を取り上げたいと思います。

富岡製糸場があるのは群馬県富岡市。下の地図でもわかるように、高崎市に隣接した市になります。富岡製糸場があるのは、前回のブログで紹介した高崎駅から見ると南西の方向です。富岡市の西には、長野県との境となる険しい山々がそびえ立っています。現在は、市内に上信越自動車道の富岡ICができていますが、正直あまり便利なところという印象はありません。なぜ、この地に日本初の近代工場が建てられたのでしょうか。今回はその「?」を解き明かしてみたいと思います。

富岡には、高崎駅から出ている上信電鉄というローカル私鉄を使用して向かいました。上信電鉄では高崎駅からの往復乗車券と富岡製糸場見学料がセットになっていて、合計2620円になるところを2200円で購入できる「富岡製糸場見学割引乗車券」が発売されています。今回はこの切符を利用して、ちょっとだけお得に行くことができました。

電車に乗っていてちょっと面白いことに気づいたので、本題の前に少しだけ寄り道します。
高崎駅を出た電車は、なぜか左に大きくカーブしていきます(下の地図中の矢印①のところ)。富岡や終点の下仁田は西にあるのにおかしいですね。
でも、この「?」は間もなく解けました。電車はカーブの先で烏川からすがわという川に差し掛かります。もし地図の①のところでカーブせずにまっすぐに進んだ場合、電車は烏川を斜めに渡ることになります。そうすると、かなり長い橋を架けなければならなくなりますね。このカーブによって川に対しては垂直の方向から入ることになりますから、橋の長さを短くすることができるのです。つまり、このカーブの目的は橋の建設費用や工期を抑えるためだったということです。

このまま西に向かうかに見えた上信電鉄の線路は、また左に曲がっていきました。地図中の②のところは、先ほどの①のところよりもかなり大きく東に迂回していますね。
この「?」の理由は電車の中からではあまりよくわからなかったのですが、土地の高さがわかりやすい下の地図を使うとよくわかります。①のカーブの後にそのまま進んだ先には山があるのです。ここを通すにはトンネルを掘るか切通しを作るしかありません。いずれにしても工事が大変になり、工事費用も多くかかってしまいます。つまり、2つ目のカーブも1つ目と同じ理由だったのですね。

高崎駅から40分弱で、富岡製糸場の最寄り駅である上州富岡駅に到着しました。下の写真のように、地方の鉄道の駅によくあるような佇まいで、とても世界遺産のある観光地の駅とは思えませんね。

しかし、改札を抜けた駅の外観は、ちょっとおしゃれに整備された姿になっていました(下の写真)。上の写真のホームとこの駅前、違和感があり過ぎだと思いませんか。〝ハリボテ〟のようなこの駅前も、資金もそれほど潤沢じゅんたくではない上信電鉄が、世界遺産の町の玄関としてなんとか整備しようとした努力の表れなのでしょう。そう考えると、最初に感じた違和感も少し薄れてきたのです。

駅から富岡製糸場の入り口までは徒歩で10分ほどかかります。訪問したのが平日だったこともあるのかもしれませんが、途中の商店街にもあまり人の姿はなく、静かな町をのんびりと歩いていきました。

富岡製糸場というと、レンガが印象的な下の写真の建物(東置繭所)を思い浮かべる人が多いと思います。洋風建築だと思っていたのですが、よく見ると屋根は瓦葺きになっています。明治の文明開化のころには、このような和洋折衷せっちゅうの建物が各地で建てられたのですが、富岡製糸場もそうだったとは今まで気づいていませんでした。考えてみると、この建物の写真って下から上を見上げるような角度で撮られたものが多かったような気がします。やっぱり、現地に行かないと気づかないことってあるんですよね。

富岡製糸場ができたのは1872年(明治5年)のこと。東置繭所の入り口には「明治五年」と書かれたプレートが掲げられています。当時は生糸が重要な輸出品となっていたのですが、国産の生糸には粗悪品も多く、品質の改善が求められていました。品質向上と生産力向上のため、明治政府がフランスの技術を導入して設立したのがこの富岡製糸場だったのです。

リンスタの小5の授業では、工業の発達条件として次のようなことがあるということを学びます。
①原材料が採れる場所が近くにあること。
②工業用地や工業用水に恵まれていること。
③交通の便が良いこと。
➃大都市が近くにあること。

では、富岡製糸場についてこれらの条件を検証していきましょう。

①については、当時の群馬県など関東地方の内陸県では養蚕がさかんだったので、原料となるまゆは入手しやすかったでしょう。でも、富岡である必要はなく、群馬県の他の地域でもいいし、埼玉県などの他の内陸県でも問題なさそうです。
②については、繭をほぐして生糸にしていくのにお湯や蒸気を使うので、特に水が得やすいこと重要です。
下の地図でわかるように富岡の町は南北を川に挟まれています。これらの川から取水すれば、水に困ることはなさそうです。
③についても、当時の主な輸送手段は船ですので、これらの川が重要になってきます。富岡製糸場のすぐ裏手を流れている鏑川かぶらがわは、先ほどの烏川に合流し、さらにその先では利根川に合流します。利根川から江戸川を通れば東京にもたどり着けますので、➃の条件もあてはまります。東京から港となる横浜までは鉄道もあるので、海外へ輸出をするのも問題ありません。
現代の感覚で見ると違和感のあるこの地は、富岡製糸場が建設された当時としては最適な地だったのでしょうね。建設を主導したフランス人ポール・ブリューナは、埼玉県や長野県などにも視察におもむいているようです。さまざまな検討を重ねた結果選定されたのが、この富岡だったのです。

さて、下の写真は製糸場の中心となる繰糸所です。ここは、繭から生糸を取り出す繰糸そうしが行われていたところで、当時はここでたくさんの工女たちが働いていたのでしょうね。操業当時の状態がそのまま残っている工場内部を見て、ふと「なんで閉鎖された工場の建物や設備が壊されなかったのだろう?」という疑問が湧きました。
工場が閉鎖されたのは1987年のこと。世界遺産登録への動きが始まったのは2000年代に入ってから(世界遺産登録は2014年)なので、少なくとも10年以上の月日が流れています。10年もたてば、使わくなった工場など取り壊されてしまっても不思議ではないですよね。

工場を最後に所有していたのは片倉工業という会社です。会社は「売らない、貸さない、壊さない」という方針を掲げて、工場の維持に努めたのだそうです。設備のメンテナンスにも多額の費用がかかりそうですし、大きな工場ですから固定資産税もかなり多くの金額を支払わなければならなかったでしょう。それでも片倉工業は工場を維持することにこだわったのです。そういった努力があったからこそ良好な状態が保たれ、後の世界遺産登録にも繋がったのですね。

貴重な財産を残してくれた人々に感謝をしながら、ゆっくりと世界遺産を堪能したのです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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