白井亨(しらいとおる)

~群馬県前橋市 上州の要の地だったのに…編~

2024.06.28

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

都道府県庁所在地の都市といえば、その地域の政治・経済・交通などの中心となっていて、人口も最大の都市というイメージがあると思います。しかし、47都道府県中5つは都道府県庁所在地と人口最大の都市が一致しておらず、その1つになっているのが群馬県です。

上の地図でもわかるように、2つの市はかつて上州と呼ばれた群馬県の中南部に位置しています。両市とも合併により元々の市の範囲よりは広くなっていますが、合併前も2つの市は隣接していました。
前橋市の人口は約33万人、高崎市の人口は約37万人となっており、それほど大きな差があるわけではないのですが、なんとなく高崎市に比べて前橋市は地味な印象があります。ネットで検索してみても、「前橋には何もない…」というようなコメントも多数見られますね。おそらくその大きな原因となっているのが交通機関の存在ではないかと思います。高崎駅は上越新幹線と北陸新幹線の分岐点となっているターミナルですが、前橋駅は東京からの直通列車もわずかしかありません。関越自動車道の前橋ICも、高崎市との市境にあってその半分ほどは高崎市内です。北関東自動車道は高崎JCTで分岐してしまい、前橋市中心部からは遠い市の南部を通るだけです。

まずは、前橋市の歴史について見てみましょう。
戦国時代の前橋は「厩橋まやばし」とよばれており、厩橋城は北条氏と上杉謙信によって激しい争奪戦がくり広げられました。
下の地図を見てください。前橋市の北には赤城山と榛名山があり、その間を利根川が流れています。利根川を遡ったところには越後山脈があり、それを越えると謙信の領国である越後国えちごのくにです。

前橋市内で最も目立つ建物といえば、高さ153m、33階建ての群馬県庁本庁舎でしょう。この建物は県庁としては日本一の高さだそうです(都道府県全体では東京都庁が日本一)。目の前には、県のキャラクターである〝ぐんまちゃん〟の石像もあり、まさに群馬県のランドマークと言える存在です。この群馬県庁があるところこそ、かつて厩橋城があったところで、付近には土塁の跡なども残されています。

下の写真は、群馬県庁の展望フロアから南東方向を見たものです。峠を越えて厩橋城に入った謙信も、目の前に広がる広大な関東平野の景色を見たことでしょう。関東を見渡すかなめの地として、厩橋城は上杉謙信の関東攻略の拠点となったのです。

展望台の北側には、下の写真のように赤城山がそびえ立っています。関東地方の覇者となっていた北条氏から見れば、厩橋城は越後から関東への出口を塞ぐところに位置します。ここを押さえてしまえば、謙信は関東へ歩を進めることができません。謙信の関東進出を阻みたい北条氏にとっても、ここはとても重要な場所なのです。

2枚の写真からも、前橋という土地が関東平野とその北に位置する山地の境目にあることがよくわかります。戦国時代の上杉氏も北条氏も、このような風景を見て前橋の重要性を認識していたのでしょうね。お互いにとっての重要な場所だけに、激しい攻防がくり広げられたのです。

一方、高崎市は古くからの交通の要衝ようしょうとして栄えてきました。先ほどの地図をもう一度見てください。高崎市の西、榛名山と妙義山の間にはいくつかの川が流れており、これを遡っていくと長野県との境になっている碓氷峠があります。高崎は、関東から信濃国しなののくに(長野県)、美濃国みののくに(岐阜県)などの山間部を通って京都に至る中山道の宿場町でした。江戸時代の五街道の1つに数えられていた中山道にあった69の宿場のなかでも、高崎は4番目に栄えた宿場町だったそうです。北の越後国に向かう三国街道の分岐点にもなっており、物資の集散地として多くの商人たちも集まってきました。

私も前橋駅から電車に乗って高崎駅に向かったのですが、前橋を出たときには空席もあった電車内は駅に止まるたびに混雑を増していき、高崎駅では多くの人が降りていきました。駅の賑わいの様子も前橋駅とは比較になりません。この様子だけ見れば、まちがいなく群馬県の中心は高崎という印象です。

ではいよいよ、なぜ県庁所在地が前橋市になったのかということについて書いていきましょう。

群馬県が誕生したのは1871年のこと。このときの県庁所在地は高崎市で、県庁は高崎城があったところに置かれました。しかし、この高崎城が陸軍の管轄になってしまい、県庁は追い出される形になってしまいました。高崎には県庁として使用できる場所が他になかったため、群馬県庁は前橋に移されることになりました。かつての厩橋城(当時は前橋城)を利用することができたのです。
1873年には、群馬県そのものがなくなってしまいます。埼玉県南部と合併され熊谷県となり、県庁所在地も熊谷に置かれました。しかし、1876年には再び群馬県が成立し、県庁所在地は高崎となりました。ところが、県庁として利用した寺院が手狭だったため、いろいろと不都合が起こっていました。そこで、県は再び県庁を前橋城内に移すことにしたのです。高崎の人々には「県庁移転は一時的なもので、施設の整備などがおこなわれれば高崎に戻す」と伝えていたそうです。
しかしその裏には、前橋側の県庁誘致の動きがあったようです。当時の前橋は生糸の一大産地でした。生糸は日本の重要な輸出品であったため、前橋には経済力があったのです。県庁移転の費用をすべて出すということまで約束し、再び前橋を県庁所在地としたのです。
高崎の人々がこれに納得できるはずもありません。県庁を戻すという約束を、金の力で強引に反故にされたように思えたのでしょう。裁判まで起こしたそうですがその願いは叶わず、県庁は前橋のままということになっているのです。

前橋城の近くには利根川が流れています。利根川は関東地方を代表する河川ですが、1都6県の県庁所在地のうち、市内を利根川が流れているのは前橋市だけです。下の写真のように、群馬県庁の展望フロアからも、利根川の流れを眺めることができます。

しかし、この利根川の存在が前橋を苦しめることにもなります。江戸時代、前橋城は利根川によって浸食されて使用できなくなり、藩主は前橋城を放棄してしまいました。地元の生糸商人らの力によって城が改修されて藩主が前橋に戻ったのは1867年のこと。同じ年には大政奉還がおこなわれ、江戸幕府がなくなってしまうのです。武士の時代が終わってしまうのですから、藩主が戻っても「時既に遅し」ということだったのでしょう。

このような経緯があったからこそ、新たにできた群馬県の県庁が高崎になってしまったことを素直に受け入れられる前橋の人々は少なかったのでしょう。少々強引ともいえる方法で県庁の誘致は、こんな背景があったのです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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