~東京都北区 首都を守る砦編~
2024.05.17
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
♬は~るのぉ うら~ら~のぉ すぅみぃだぁがぁわ~
おそらく誰もが一度は聴いたことのある唱歌「花」でも知られる隅田川は、東京都北区、足立区、荒川区、墨田区、台東区、江東区、中央区を流れる、全長23.5㎞の河川です。流域には浅草寺や東京スカイツリー、両国国技館などの名所も多くありますし、夏の花火大会には多くの見物客が訪れます。東京の風景には欠かせない河川であると言っていいでしょう。
さて、その隅田川ですが、地図で見てみるとなんとなく不自然さを感じませんか?
隅田川と荒川が、妙に近づいたり離れたりしながら流れていること、荒川の流路が隅田川と比べてゆるやかであることなど、自然にできたものとしては違和感があります。
現在の荒川は人工的に築かれた放水路です。かつての荒川は、現在の隅田川の流路を流れていました。つまり、昔は隅田川が荒川とよばれていたのです。
江戸時代までは農村地帯だった流域ですが、明治時代になると市街地が広がっていきます。また、現在の墨田区には多くの工場も建設されました。江戸時代もたびたび洪水の被害が起きていた隅田川(当時は荒川)ですが、土地利用の変化とともにその被害は深刻なものになっていきます。そこで、洪水対策のために計画されたのが荒川放水路だったのです。
首都東部を洪水から守るため、荒川放水路の建設事業に着手したのは1911年のこと。完成したのは1930年ですから、なんと20年近くの長い年月がかかっています。工事の途中には関東大震災(1923年)もあり、おそらく大きな影響もあったことでしょう。
荒川放水路の完成によって洪水の被害は抑えられるようになり、流域の開発もさらに進んでいったそうです。
さて、荒川と隅田川が分岐するところには、岩淵水門が建設されています。ここに水門がつくられたのは1924年のことでした。その後、老朽化した古い水門に代わって新しくつくられたのが現在の岩淵水門です。旧岩淵水門もその歴史的価値を認められて、当時の姿のまま保存されています。下の写真のように旧水門は赤色、現水門は青色に塗り分けられているので、はっきりと区別ができます。個人的には、旧水門の武骨な姿のほうに魅力を感じますね。
では、この水門が築かれている場所を地図で確認してみましょう。わかりやすいように、旧水門を赤、現水門を青で、実際と同じように色分けしてみました。
平常時、水門は開いたままになっていますので川の流れが遮られることはありません。しかし、大雨なので川の流量が大きく増えたときには、水門がすべて閉じられます。つまり、上流からの水は隅田川には流れこまなくなり、すべて荒川に流れこむことになります。もちろん、旧岩淵水門もまったく同じ役割をしていました。
なぜ、水量が増えたときには隅田川の水を止めなければいけないのでしょうか?
前述した通り、現在の荒川は隅田川流域の洪水対策のために建設されました。また、都心に近いところをくねくねと流れる隅田川のほうが、荒川と比べて洪水のリスクが高いこともわかります。ここから見たそれぞれの川の景色を見れば、さらにはっきりとその理由がわかるのです。
まずは隅田川です。
下の写真でわかるように川の両側にはコンクリートの壁がつくられています。河川敷のスペースもありませんので、水量が増えたときにはすぐにこの両側の壁から水が溢れてしまうでしょう。両岸の建物も川からとても近いので、洪水の被害も大きくなるでしょうね。
次に荒川を見てみましょう。
下の写真からも、とても広い河川敷があることがわかりますね。これなら川の水量が増えても、そう簡単には堤防の外側に溢れることはなさそうです。つまり、隅田川は余裕のない川、荒川は余裕を持って建設された放水路ということになるのです。水量が多くなったときには余裕のある荒川に流し、隅田川のほうを締め切るのは当然のことなんですね。
最近では、2019年の〝令和元年東日本台風〟のときに水門が閉じられました。この台風は各地に大きな被害をもたらしました。千曲川や阿武隈川などの大きな河川で堤防が決壊して、福島県や宮城県を中心に100人以上の方が亡くなりました。千曲川から溢れた水に冠水した新幹線の車両がすべて使えなくなってしまったのにも驚いた記憶があります。この台風のときには、岩淵水門の閉鎖によって荒川と隅田川の水位差が5m以上生じたのだそうです。もし、水門を閉鎖していなければ、隅田川の水はまちがいなく堤防を越えていたでしょう。まさに、岩淵水門は〝首都を守る砦〟なのですね。
さて、最後にもう1つ。
下の地図は東京都荒川区の範囲を示したものです。
荒川区の地名は、当然ですが荒川に由来します。しかし、上の地図をよく見てください。荒川区は荒川の流域ではないのです。「もともと隅田川が荒川だったんだから、今の荒川ができる前につけられたんでしょ?」と思ってしまいますが、荒川区ができたのは1932年のことなのです。前述の通り、荒川放水路の完成は1930年です。荒川区ができる2年も前に隅田川と荒川は分離しているのです。それなのになぜこの地名がつけられたのでしょうか?
実は、荒川放水路が完成してすぐに河川名が変更になったわけではないんです。しばらくの間は、地図中にある千住大橋より上流が荒川、それより下流が隅田川とよばれていました。江戸時代にも、浅草付近よりも下流の隅田川は大川と呼ばれていましたので、それに似ていますね。現在のように、岩淵水門を境に河川名が分かれたのは1965年のことだそうです。荒川区に荒川が流れていないというのはよく知られていることなのですが、もともとはちゃんと荒川流域にある区だったということですね。もし〝隅田川区〟にしていたら〝墨田区〟と混乱しそうなので、結果的にこのネーミングは正しかったということでしょう。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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