白井亨(しらいとおる)

~千葉県習志野市・船橋市 船橋なのに習志野・・・?編~

2024.03.29

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

さて、下の3枚の写真をご覧ください。左から、習志野駅、新習志野駅、北習志野駅の写真です。どれも「習志野」がつく駅ですが、実はこのなかに1つだけ仲間はずれがあるのです。どれだかわかりますか?

正解は真ん中の新習志野駅でした。
下の地図でもわかる通り、習志野駅と北習志野駅は千葉県船橋市、新習志野駅は千葉県習志野市にあります。
実はこれ駅名だけの話じゃないんです。住所に注目すると、習志野市に東習志野という住所はあるのですが、習志野、西習志野、習志野台という住所は船橋市にあります。学校を見ても、習志野高校は習志野市ですが、日大習志野高校は船橋市にあります。なんでこんなにややこしいことになっているんでしょう?

その「?」を解く前に、習志野という地名の由来について見ていきましょう。
1873年4月、明治天皇指揮のもと、この地で陸軍の大演習が実施され、このときに天皇によって命名された地名が「習志野ノ原」なのです。
船橋市にある郷土資料館の敷地内には、「明治天皇駐蹕ちゅうひつところ」と刻まれた、下の写真の石碑が立っています。ちなみに「駐蹕」とは、天皇が一時的に乗り物を止めたり、滞在したりすることをいいます。

この石碑は、別の場所にあったものを移したそうで、元々は大演習のときに天皇が天幕を張った場所に建っていたそうです。現在そこには「みゆき町会会館」という建物があるのですが、この「みゆき」というのも天皇に由来します。天皇が普段の住まいを離れて外出することを「行幸ぎょうこう」または「御幸みゆき」といいます。この場所の現在の住所は船橋市習志野台ですが、かつては「御幸台」と呼ばれていたそうです。意外なところに由緒ある地名が残っているものですね。

習志野ノ原の由来の1つに、この演習で一軍を率いた篠原国幹くにもとの活躍に感銘を受けた天皇が、「篠原へ習え」と言ったということがあるそうです。あくまでも個人の意見ですが、私はこの説については賛同できません。この説が正しいとするとその由来は「習篠原=ナラシノハラ」ですよね。でも、天皇が命名したのは「習志野ノ原=ナラシノノハラ」で「ノ」が1つ多いんです。わざわざ「篠原」という名の間に「ノ」を入れるでしょうか? 1873年というのは明治6年のことで、近代日本が産声を上げたばかりのころです。おそらく明治天皇は、「新しい日本をつくっていくというこころざしを持ってこの演習に臨め」という意味で習志野ノ原と命名したのだろうと思います。

だいぶ話があちこちに行きましたが、最初の「?」に戻りますね。

1953年に「町村合併促進法」という法律ができたことで、「昭和の大合併」が始まります。
この地域でも、現在の習志野市の一部となる津田沼町、船橋市の一部となる二宮町、千葉市の一部となる幕張町、八千代市の一部となる大和田町の4つの町が合併して、習志野市ができる予定でした。もしこの通りに合併していれば、最初に挙げたような矛盾はおこりませんでした。ところが、いろいろと問題が起こった結果、二宮町は船橋市へ、幕張町と大和田町の一部は千葉市と合併することになってしまいました。先ほど紹介した明治天皇の石碑は旧二宮町に含まれており、元々はこのあたりの地名が習志野だったということから「船橋市習志野」というややこしい住所が生まれてしまったのです。ちなみに、先ほどの地図中にある陸上自衛隊の習志野駐屯地も習志野演習場も船橋市と八千代市に属しており、習志野市は含まれていません。

習志野市を代表する駅はJR津田沼駅ですが、ホームには下の写真のようなものがあります。

みなさんも、もし津田沼駅を訪れることがあったら、駅のホーム上に描かれた習志野市と船橋市の境を見て、この2つの市の地名の複雑な事情に思いを馳せてみてください。

そうそう、最初に紹介した習志野市東習志野は、すべての習志野が船橋市となってしまった習志野市が、それまでの地名を変更してつけた地名です。新習志野駅があるところは埋め立て地ですから、こちらも元々の習志野とは縁がないのです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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