白井亨(しらいとおる)

~宮城県仙台市ほか どこまでが仙台?編~

2024.03.01

 

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

リンスタの小4社会科では、日本のおもな河川について学ぶ単元があります。河川を学ぶときに大事なことは、その流域にある盆地や平野をセットで覚えていくことです。例えば、利根川なら関東平野、淀川なら大阪平野という具合です。また、石狩川流域には石狩平野と上川盆地、最上川流域には米沢盆地と山形盆地と庄内平野というように、複数の重要地名が出てくる河川もあります。
今回のテーマになる仙台平野は、1つの平野に2つの大きな河川が流れ込むところです。このような平野としては、以前に新潟県の越後平野を紹介しましたね。下の地図で白い影がついているところは新潟市、赤い丸がついているところには「越後平野」の4文字が書かれています。信濃川と阿賀野川は新潟市内を流れ、かなり近いところで日本海に流れ出ていることがわかりますね。
ところが、仙台平野で同じような地図をつくると、かなり様子が異なっていることがわかるのです。仙台平野とセットで覚えるべき河川として挙げられているのが、北上川と阿武隈川です。上の越後平野の地図と同じように、2つの河川の河口、仙台市、仙台平野の文字が書かれているところを示してみましょう。

まずわかるのが、北上川と阿武隈川の河口がとても遠いということです。北上川の河口が2つ示されていますが、現在の北上川河口は新しく開削された人工河川の河口ですので。元の流れは旧北上川のほうです。阿武隈川河口と旧北上川河口の間は直線距離で約50㎞、陸路を辿ると約70㎞も離れています。赤丸で囲んだ「仙台平野」の文字も、先ほどの「越後平野」と比べるとかなり広い範囲を示しています。さらに、2つの河川の河口は、両方とも仙台市ではないのです。

さらに地図を見ると気づくことがあります。
松島湾があるあたりの陸地は、明らかに標高が高くなっています。つまり、仙台平野はこの丘陵地によって南北に分断されているということです。松島湾は、仙台湾のなかにある湾です。よく考えてみると不思議な地形ですよね。おそらく、この丘陵地があったから2つの河川が運んできた土砂が堆積することなく、松島湾が形成され、日本三景の1つにも数えられる独特の地形を生んだのでしょうね。

調べてみたところ、仙台平野は、北上川によってつくられた仙北平野と、阿武隈川によってつくられた仙南平野に分けられるのだそうです。仙台市に近いのは仙南平野ですが、ここの沿岸部だけを仙台平野と呼ぶこともあるそうです。たしかに、仙台市との位置関係を考えると、仙北平野まで「仙台」の一部と考えるのは少々無理があるようにも思えますね。

仙台平野は稲作のさかんなところです。ここのブランド米というと、かつてはササニシキ、現在はひとめぼれがよく知られています。この2つの米が生まれたのは現在の大崎市になります。大崎市にある東北新幹線古川駅前には、下の写真のような碑がありました。

撮影の角度が良くないので、吉野作造のほうが目立ってしまっていますが、たしかに「ササニシキ・ひとめぼれ誕生の地」とかいてあります。仙台駅から古川駅までは新幹線で10分強、在来線だと1時間以上かかるほど離れた場所にあります。大崎市の人たちにとっては、「ササニシキやひとめぼれは仙台の米」と言われるのは不本意かもしれないですね。

さて、ここで1つ「?」が見つかりました。
仙台平野という名称は仙南平野の海岸部だけを指すことがあるということを書きましたが、なぜ沿岸部だけなんでしょうね? たしかに仙台市の中心部はやや内陸に入ったところにあるので、ここは仙台平野の一部ではないということでしょうか? では、今度はそのあたりを地図で確かめてみたいと思います。

地図の色に注目してください。海岸のある東の方から、3段階に色が変化しているのがわかりますか?
少し青みがかった沿岸部は標高が低く、おもに水田に利用されています。真ん中のやや緑がかったところは少し高くなっていて、おもに住宅地となっています。その西の緑のところはさらに標高が高くなっていて、JR仙台駅を中心とした市街地になっています。この地図を見ると、沿岸部だけを仙台平野と呼ぶのというのも納得できますね。

仙台市中心部のさらに西には山があり、そこには伊達政宗が築いた仙台城址があります。
そうなんです。ここ仙台は伊達政宗が築いた町だったのです。伊達政宗は戦いの世に生きた武将ですから、平野に城を築くはずはないですね。仙台平野と仙台市街地が離れていて、地形も異なるのは当然と言えば当然のことだったのです。東北新幹線も、仙台駅の前後で不自然にカーブして市街地に入っていることがわかりますね。

最後に、仙台発展の礎となった仙台城を地図で確認してみましょう。

平野の話題から始まったとは思えない地形ですね。
城の東側は切り立った崖、南側は深い谷、西側は山と谷が連続していて、この3方向の守りは鉄壁と言っていいでしょう。唯一北側がいくらか緩やかになっていますが、そこに築かれたのが下の写真の石垣です。政宗が築いた当時からは修復が加えられているそうですが、高さは最も高いところで17mもあるそうです。さらに傾斜は約70度と急角度になっており、北側からの攻略も困難であることがわかりますね。伊達政宗は、徳川の世になってからも虎視眈々と天下を狙っていたとも言われます。この石垣を見て、そんな政宗の〝本気〟を感じたのでした。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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