~東京都千代田区 大久保の失敗編~
2023.10.31
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
前回のブログを読んでくださった方は、今回のタイトルを見て「ん?」と思ったことでしょう。そうです。今回のブログは、前回のタイトルを受けてのテーマです。…といっても内容はまったく異なるものですので、ちょっとしたダジャレみたいなものだと思ってください(笑)
さて、今回の「大久保」は、明治維新の立役者の一人でもある大久保利通です。
大久保利通といえば、西郷隆盛とともに幕末の薩摩藩を牽引した人物として知られていますが、歴史上の人物のなかでも人気が高い西郷に対し、大久保はあまり人気がないようですね。確かに、「陽」の印象が強い西郷に対して、大久保はどちらかというと「陰」の印象が強いような気もします。また、最後は西南戦争で華々しく散った西郷に対し、その敵となって西郷を追い詰めたというようなマイナスイメージもあるのかもしれません。しかし、江戸幕府滅亡後の新政府を率いて、近代日本の礎を築いたのは間違いなく大久保利通だと思います。暗殺によりその生涯を閉じた場所の近くにある清水谷公園には、その大久保の功績を称え、びっくりするくらい大きな石碑が建てられています。
1878年、大久保利通が暗殺された事件のことを「紀尾井坂の変」といいます。歴史上の事件で「変」がつくのは、本能寺の変や桜田門外の変などで、その当時の政治の状況が大きく変わったことを意味します。大久保の死は、日本の政治史にとっての大事件だということですよね。
この紀尾井坂の変ですが、事件に関係する場所を地図で見てみると、いくつか「?」が見えてくるんです。それではまず、地図を確認してみましょう。
まず、地図の右のほうに、大久保利通が住んでいた屋敷があります。この場所は現在、財務省や外務省などの国の機関が集中している「霞が関」というところです。当時の大久保は、政府のトップ、現在でいえば内閣総理大臣のような立場にいました。大久保がこの場所に邸宅を構えていたのも、天皇のいる皇居に近いということが大きな理由でしょう。ところが、暗殺当日の大久保は、天皇に謁見するために皇居ではなく赤坂仮皇居(現在、赤坂離宮や迎賓館のあるあたり)に向かいます。まずこれが1つめの「?」です。
実は、この事件が起こる5年前の1873年に皇居で火災が発生し、御所が消失してしまいました。そのため、明治天皇は新しい御所が完成するまでの住まいとして、赤坂仮皇居にいたのです。でも、火災からはすでに5年も経過していますよね。もっと速やかに御所を建てることはできなかったのでしょうか? これも「?」ですね。
もちろん、新たな御所の建設は火災後すぐに計画されました。しかし、その後起こった西南戦争を始めとする士族による反乱のための戦費が財政を圧迫しており、天皇自身の意向によって新しい御所の建設は見送られたのです。
もし、この火災が発生しなかったら、あるいは新皇居が速やかに完成して天皇がもとの皇居に戻っていたら、この事件は起こらなかったでしょう。大久保邸と皇居の間は距離も近く、赤坂方面よりも厳重に警備がなされていたでしょうからね。
地図を見ると、もう1つの「?」に気がつきます。
大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、地図中に点線で示した道順を行くのが最も近いはずです。しかし、事件の名にもなっている紀尾井坂や石碑のある清水谷公園は、このルートから外れているのです。なぜ大久保は、わざわざ遠回りにも見えるこの道を選んだのでしょうか?
通説だと、現在でも人通りの多い赤坂見附付近は当時も賑わっており、この人込みを避けるために人通りの少ない道を迂回したとのこと。でも、現在でも総理大臣級の重要な人物がわざわざメインルートを外れて移動するなんて、ちょっと考えられないですよね。もしそうならば、そのルート上は厳重な警備が敷かれるはずです。何か他に理由があったのではないでしょうか?
清水谷という地名は、紀伊徳川家と井伊家の屋敷の間の谷に、清らかな湧水があったことから名づけられたそうです。現在の清水谷公園も、下の写真のように池があり、都会の真ん中とは思えないような景色が見られます。
明治維新の混乱の中、国を率いていた大久保には、常に責任と重圧がのしかかっていたことでしょう。そんなハードな日々のなか、少しだけ癒しを求めるようなことはなかったでしょうか。現在の私たちも、休日に緑の多い公園などを散歩してリラックスすることがありますよね。大久保が暗殺されたのは5月のこと。上の写真は秋に撮ったものなので紅葉ですが、きっと美しい新緑が見られたことでしょう。冷徹そうな大久保に、そんな人間らしい一面があったのではないかと考えるのは間違いでしょうか?
しかし、この道を選んだのはやはり失敗でした。当時の道は馬車1台がやっと通れる程度の幅。地形も、その名の通り谷になっているわけですから、ここで待ち伏せをされたら逃げる術がありません。1874年、同じように襲撃された岩倉具視は、皇居の堀に転落したことで刺客たちがその姿を見失い、一命を取り留めることができたそうです。大久保が襲われた清水谷のような谷間の地形であればそのような逃げ場もありません。どのような理由にしても、大久保はこの道を通ってはいけなかったのです。
大久保は亡くなる前に「30年構想」というのを語っていたそうです。明治維新からの10年間を3つの時期に分け、最初の10年間は「創業の時期」で内乱などが起こるとしていました。実際に不平士族の反乱や一揆、さらに西郷が起こした西南戦争など多くの内乱が起こっています。大久保はこの10年の終わった直後に亡くなったわけですが、次の10年は「内治整理と殖産興業の時期」、さらに次の10年は後継者による「守成の時期」として、大久保自身は第2期まで関わるつもりだったようです。大久保の描いた明治維新が完成していたら、日本はどのような国になっていたのでしょうね。
死後、大久保には多額の借金があったことが発覚します。その金は私的に使ったものではなく、私財を投じてまで新しい国家の建設に邁進していたのです。暗殺者の主張した理由の1つに、大久保は政治を思うがままに動かして私腹を肥やしているというのがあったそうです。30年構想にしても借金のことにしてもその主張が的外れだったということがわかるでしょう。つくづく大久保の死が惜しまれます。
現在、故郷の鹿児島には大久保利通の銅像が建てられています。この像ができたのは1979年のこと。なんと大久保の死から100年も過ぎてからのことなのです。郷土の英雄西郷を倒した人物として、大久保は鹿児島の人たちからは嫌われていたようですね。同じく鹿児島出身の西郷隆盛の像が建てられたのは1937年だそうですから、大久保の銅像が建てられたのはずいぶん後になってからです。また、その建立の際にも、結構大きな反対運動が起こったのだそうです。最初は、友人でもあった西郷の像の隣に建てるつもりだったそうですが、「西郷どんを裏切ったやつを隣に置けるものか!」という鹿児島の人々の反発が強く、結局現在の位置になったとのこと。私はむしろ、大久保を始めとする明治新政府の人々を裏切ったのが西郷だと思うのですが、こんなことを言うと鹿児島の人には怒られてしまうのかもしれませんね(笑)
像の台座に刻まれている「大久保利通」の文字は、なんとなく歪んでいるように見えます。これも何らかの意図があるように思えてなりません。これだけ国の発展に尽くしたのに、こんな扱いを受けている大久保はとても気の毒だと思いました。日本の歴史において果たした役割を考えれば、西郷よりも大久保のほうが高く評価されるべきだと思うのですが、いかがでしょうか?
そうそう、先ほどの地図をもう一度見てください。事件のあった清水谷公園と事件の名称になっている紀尾井坂は少し離れているようですね。それなのになぜ「紀尾井坂の変」という名になったのでしょうか? その答えは、紀尾井坂に立つ坂の名を示す碑に書いてあります。気になる人は、ぜひ現地に行って確かめてみてください。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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