白井亨(しらいとおる)

~長野県松本市 『信濃の国』の中心は?編~

2023.10.03

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

みなさんは、自分が住んでいる都道府県の歌を知っていますか?
「えっ? 都道府県の歌なんてあるの??」って思った人が多いと思いますが、大阪府、広島県、大分県の3つの除く44の都道府県には「都道府県民歌」というのが制定されているんですよ。…と言っている千葉県民の私も、恥ずかしながら千葉県の県民歌を聞いた記憶がありません💦
ところが、長野県にはほぼすべての県民が知っているという県民歌が存在するんです。その歌の名を『信濃の国』といいます。リンスタには長野県から参加している生徒もいるのですが、その子もあたりまえのように知っていて歌うことができましたよ!

♪ 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
♪ 松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
♪ 海こそなけれ物さわに よろず足らわぬ事ぞなき

3行目にある「平」とはその字のごとく平地のことであり、山に囲まれている長野県の場合は「盆地」のことを指します。最初の3つは今でも盆地の名になっていますよね。すなわち、中央部の松本盆地、南部の伊那盆地、東部の佐久盆地のことです。4つめの善光寺平は、1400年の歴史を誇る善光寺がある長野盆地のことで、ここには県庁所在地となっている長野市があります。
下の地図に長野市の位置を記しましたが、県全体を見るとかなり北に寄っていることがわかりますね。長野県は全国でも4番目に面積が広い県ですので、南の伊那や木曽などに住んでいる県民が長野市に行くのは大変そうです。むしろ、長野県第2の都市である松本市のほうが、位置的には県庁所在地にふさわしいような気もします。これはどうやら「?」ですね。

それではまず、長野県の歴史を紐解いてみることにしましょう。
地方の区分ができたのは飛鳥時代のこと。いわゆる律令制度というものですね。リンスタで使っている小5下巻のテキストにも「地方は国・郡・里に分けられ,国司は都から派遣された貴族,郡司は地方の豪族,里長は有力な農民がその職にあたりました。」と説明されています。国司がいるところを国府といいますが、信濃国の国府が置かれたのは、長野市でも松本市でもなく、現在の上田市の辺りだったそうです。上田市というと、真田幸村で有名な真田氏を思い浮かべる人も多いと思いますが、長野県の中心というイメージはないですよね。位置的にも、長野市ほどではないものの、やや北に寄っているような感じです。そもそも昔から長野県の中心は北に寄っていたということなのでしょうか?

やがて時代は武士の時代になります。リンスタで使っているテキストには「平氏が滅亡した後,源頼朝と義経の関係は悪くなり,頼朝は義経をとらえるため,国ごとに守護,荘園や公領ごとに地頭を置きました。」という一文があります。当然、信濃国も守護となる武士によって支配されることになるのです。

室町時代に信濃国守護となった小笠原氏は、現在の松本市にある林城を本拠地としました。ここで初めて松本盆地が信濃国の中心になるんですね。
やがて戦国の世になると、小笠原氏は武田信玄によってこの地を追われ、信玄は小笠原氏の支城だった深志城を改修し、ここを拠点とします。これが現在の松本城のルーツになります。ちなみに、城からは少々離れていますが、JR松本駅の住所は「長野県松本市深志1丁目」となっています。
武田氏が滅びた後も松本は信濃国の中心として存在し、安土・桃山時代には、豊臣秀吉によってこの地の支配を任された石川数正により現在の松本城が築かれます。この石川数正という人物、もともとは徳川譜代の家臣だったのが、突然秀吉の家臣になるという興味深い人物なのですが、今回の話題とは外れるのでここでは触れないでおきます。また、松本城については次回のブログで取り上げる予定です。

その後の江戸時代も含めて、武士の時代の信濃国の中心は松本市なんですね。
武士たちが松本に拠点を置いた理由は諸々あると思いますが、その1つが交通の便の良さだと思います。下の写真は松本市中心部にある石碑です。石碑の左側には「善光寺道」、右側には「野麦街道」の文字が見えます。野麦街道というのは、長野・岐阜県境の野麦峠を越えて飛驒地方に至る道です。別の場所には「善光寺道」と「大町街道」という文字が見られる石碑もあります。大町街道は北へ向かってやがて日本海に至ります。また、南に向かえば伊那地方、諏訪地方、さらに甲斐国に至る道もあります。貴族と違いアクティブに行動する武士にとって、信濃国の中央に位置していて、交通の要衝でもある松本は拠点を置くのに最適な場所だったのでしょうね。

明治時代になると廃藩置県が実行され、長野県は長野市を中心とする長野県と、松本市を中心とする筑摩県(岐阜県飛驒地方も含む)の2つに分けられます。もともとは信濃国として1つにまとまっていたわけですから、ちょっと不自然な感じもしますよね。当時の人々もそんな思いがあったのでしょう。2つの県を1つにして、元の信濃国に戻そうという動きが起こります。そして、その中心を長野市にするのか、松本市にするのかということについての問題も発生します。
そんな最中の1876年、松本市にあった筑摩県の県庁が原因不明の火災によって焼失してしまいます。一部には放火という説もあるそうです。いずれにしてもこれにより松本市に県庁を置くことは困難になり、1つになった長野県の県庁所在地は長野市に置かれることになったのです。
以前のブログで紹介した栃木県のように、県名だけでも残すようなことをしていればよかったのかもしれませんが、松本市の人々はとても大きな不満を持つことになりました。
その後も「県庁を松本市にするか長野県を再び2つにしろ!」という声は高まっていきます。県議会でも2つの意見が激しく対立し、ついにこの件についての採決がおこなわれるというその時、傍聴席から聞こえてきたのが冒頭に紹介した県民歌『信濃の国』でした。やがてその歌声は議場全体に広がり、この騒動が収まったというのです。この話の真偽のほどは定かでないそうですが、長野県民に愛されている『信濃の国』ですから、こんな話も出てくるのでしょうね。

現在でも松本に住む人たちは「長野県の松本」という言い方を嫌うそうで、「信州の松本」と言うとか言わないとか…。

松本に県庁所在地が置かれなかった理由は、明治政府の人々が、武士の町だった松本を嫌ったからだという説があるそうです。たしかに善光寺の門前町だった長野には武士の人口はさほど多くないでしょうから、明治政府の人々にとっては面倒が少ないと思ったのかもしれませんね。筑摩県庁が放火されたという説も、なんとなく信憑性があるように思えてしまいます。

松本市というと、国宝にも指定されている松本城や開智学校を思い浮かべる人が多いでしょう。でも、松本の魅力はそれだけではありません。松本駅に降り立ったときから見える北アルプスの山々の景色も素晴らしいですし、城下町ならではの魅力的な町並みはとても素敵です。
また、上の写真のように、市内各所できれいな水が湧いており、この湧水を使った蕎麦、豆腐、和菓子、お酒などの美味しいグルメも楽しめます。市内を散策するのならば、空のペットボトルや水筒を持参することをお勧めしておきますね。
善光寺も歴史のある素晴らしい寺院ですが、町全体の魅力としては長野より松本のほうが魅力的だなぁ…というのはあくまでも個人の感想です。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

前回の記事はこちら

  • 小学生
  • グループ指導
  • 個別指導

イベント・コラム・ブログ一覧へ

お問い合わせ

受験や学習に関するご相談など、お気軽にお問い合わせください。
各種オンライン説明会も実施中です。

お電話でのお問い合わせ

0120-122-853
月~土 11:00~19:00