~千葉県習志野市 30周年の谷津干潟編~
2023.08.31
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
干潟とは「海が引き潮になったときにあらわれる砂やどろがたまった陸地」と、リンスタで使っている小4前期のテキストに書いてあります。また、ラムサール条約とは「貴重な水鳥の生息地である湿地や干潟を守る条約」と、リンスタで使っている小4後期のテキストに書いてあります。
今年(2023年)は、谷津干潟がラムサール条約登録地となって30周年を迎えた年です。
今でこそ日本国内に50か所以上あるラムサール条約登録地ですが、谷津干潟が登録された1993年6月10日以前には4か所しか存在しませんでした。関東地方では初の登録地でもあり、谷津干潟のある千葉県習志野市では毎年6月10日を「谷津干潟の日」としています。
東京の昔の地名である江戸の由来については諸説あるようですが、江戸の「江」が川を、江戸の「戸」が入り口を示し、多くの川が流れこんでいたところというのが由来という説があるそうです。確かに、かつての江戸湾である現在の東京湾にも、江戸川、荒川、多摩川などの多くの河川が流れ込んでいますね。これらの河川が運んできた土砂によって、千葉県から東京都にかけての、東京湾の最も奥まったあたりには広大な干潟が存在していたのです。しかし、東京の発展とともにその多くは埋め立てによって消滅してしまいました。谷津干潟や三番瀬(船橋市・市川市)は、かつて東京湾にあった広大な干潟の一部ということです。
さて、下の地図を見てください。
干潟というのは、普通は陸と海の境目あたりにできるはずですよね。ところが、地図で見る谷津干潟は、細い水路で海と繋がっているものの、埋め立て地に囲まれた池のような感じに見えます。
なぜ谷津干潟だけが埋め立てを免れて、干潟として残っているんでしょうか?
埋め立ては、工業用地や商業用地、住宅地などに利用するために行われるわけですから、ここも埋め立ててしまったほうが土地を利用しやすいはずなのに、不自然に残された理由は何でしょう? ここからはその「?」について探っていきましょう。
その理由は、戦前からの壮大な計画にありました。
1930年代の後半、利根川流域は度重なる洪水の被害に見舞われていました。このような被害を克服するべく、当時の内務省は、利根川の流れを分岐させて一部を東京湾に流す放水路の建設を計画したのです。
内務省というのは戦前の日本にあった行政機関で、現在の厚生労働省、国土交通省、総務省、警察庁などを合わせたような大きな権限を持つ機関でした。
利根川放水路は、現在の我孫子市付近から鎌ケ谷市を経て、船橋市と習志野市の市境付近に至る計画でした。
谷津干潟があるのは習志野市ですが、そのすぐ西側に船橋市との市境があります。JR京葉線の駅名を見ても、東側に新習志野駅、西側に南船橋駅があることからもわかりますね。
そうなんです。利根川放水路の終点こそが、まさにここ谷津干潟だったのです。
放水路建設を進めるため、この土地は国の所有となり、1940年には建設が始まりました。ところが、その後すぐに起こった太平洋戦争によって、その工事はストップしてしまいます。
戦後の高度経済成長期である1960年代から1970年代にかけて、この付近の東京湾は次々と埋め立てられていきます。しかし、国の土地であった谷津干潟は埋め立てられることはありませんでした。地元の千葉県や習志野市も埋め立ての要望を出したそうなのですが、なぜか埋め立てが実施されることはないまま時は流れてきました。その後、時代の変化とともに環境への関心が高まっていき、貴重な干潟を守ろうという声が大きくなっていったのです。
さて、ここからはいつもの街歩きです。
計画は中止になったものの工事は始められたのですから、何らかの痕跡が残っているはずです。
まず1つめの痕跡は、千葉県立船橋高校のグラウンドです。
下の写真を見てください、野球の練習をしている高校生たちの奥にコンクリートの壁があることがわかりますね。つまり、ここが周囲の土地よりも低くなっているということですよね。これは利根川放水路のために、実際に掘削がおこなわれた跡だそうです。
また、このグラウンドのすぐ近くには、下の写真のような標柱がありました。標柱に書かれている「内」の文字は、利根川放水路計画を進めた内務省を表しています。おそらく、測量か何かをするときの目印としていたものでしょうね。
下の地図に、利根川放水路の流路を示してみました。
大雑把に直線で示したものですので正確ではないと思いますが、前述のグラウンドも標柱もこの範囲にあることがわかります。
さらに、緩い下り坂となっている道を南下し、そこで見つけたのが下の写真の何もないスペース。
奥にベンチが1つ置かれているので、公園のようにも見えますね。しかし、地面には石がゴロゴロとしており、敷地全体の形もなんだか不自然で、公園としてはちょっと使い勝手が悪そうです。不自然に残ったこの場所も利根川放水路の痕跡なのでしょうか?
公園のすぐ南側には、京成線の線路と国道14号線があります。もし、ここに放水路が建設されたら、放水路を跨ぐ橋を架けなければいけないですね。その工事も実際におこなわれており、そのときにつくられた橋脚が今でもそのまま残されているのです。
下の写真のコンクリートの塊のようなものがそれなのですが、わかりますか? たぶん、正面の部分は削られてしまっていますよね。反対側はそのままの形で残っているようなんですが、工場の敷地に入らなければならず、残念ながら近づいて写真を撮ることができませんでした。
これだけの大きさのものですから、昔の地図を見たらわかるのではないかと思い、もう一度地理院地図を見てみることにしました。地理院地図は、現在の地図だけでなく、一部ではありますけど昔の航空写真を見ることもできるんです。
下の写真を見てください。1945~1950年頃の写真なのですが、予想通り橋脚跡が確認できました。しかも1つではなく複数あります!
道との位置関係から、おそらく一番左にある長いほうの橋脚が、先ほどの写真のものだと思います。
現在のこの周囲にはマンションなど多くの建物があり、それらを建てる際に橋脚もなくなってしまったのでしょう。ところが、この橋脚があるところは民家と工場のわずかな隙間になっていて、建設の邪魔になることがなかったようです。これだけの大きさのものですから、取り壊すのにも手間がかかりますからね。
谷津干潟だけでなく、この橋脚跡も様々な偶然が重なってこのような形で残されたんですね。
もしかすると、皆さんの身近にある「なんだこれ?」というものにも、意外な歴史が隠されているかもしれませんよ。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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