~神奈川県横須賀市 ペリー来航の地…? 浦賀編~
2022.12.10
~神奈川県横須賀市 ペリー来航の地…? 浦賀編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
〝泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず〟
歴史の教科書で誰もが一度は目にしたことがある、ペリー来航のことを詠んだ狂歌です。そのペリーが率いる黒船が浦賀沖に現れたのは1853年7月8日のこと。この事件をきっかけに、長い間鎖国をしていた日本は、開国へとその政策を大きく転換していきます。まさに、日本の歴史を変えたできごとでしょう。
それくらい有名な事件ではありますが、浦賀がどこにあるかということを知らないという人は意外に多いんじゃないでしょうか。そこで、今回はその「浦賀」にスポットを当ててみたいと思います。
そもそも、ペリーが来たのはなぜ浦賀なんですかね?
まずは、浦賀の位置を確かめてみましょう。
浦賀は、現在の住所でいうと神奈川県横須賀市。といっても、現在の横須賀市中心部からはかなり離れています。
地図を見ると、このあたりが東京湾(当時は江戸湾)の入り口にあたることがわかるでしょう。
下の写真は浦賀城址から見た東京湾ですが、対岸の房総半島がはっきり見えますよね。地図中の観音崎と富津岬の間の直線距離は約7㎞。江戸湾に向かう船はすべてここを通過しますので、その姿は丸見えです。このことから、江戸時代の浦賀には「浦賀奉行所」という幕府の機関が置かれ、江戸湾に入る船は浦賀に入港して様々なチェックを受けなければならなかったのです。
ペリー艦隊が現れたときに対応したのも、この浦賀奉行所の役人でした。浦賀沖に現れたペリーに、浦賀奉行所の役人が対応したので、「ペリーが浦賀に来た」となったのでしょう。江戸時代の浦賀は、それほど重要な地だったということですね。
浦賀の地形をもう少し詳しく見てみましょう。
黄色の点線で囲んだところが浦賀の港です。まるで江戸湾の入り口を向いているような細長い湾であることがわかりますね。しかも、周囲は山に囲まれていますので、船を監視するのにも都合がよかったのでしょう。江戸時代の浦賀は、江戸の防衛拠点としても重要な場所だったのです。
かつての浦賀の地名は「浦川」または「浦河」だったそうです。奥深くに入り込んだ細長い入江が、川のように見えることに由来しています。下の写真は浦賀港から東京湾方面を写しているのですが、たしかに川のように見えますね。
さて、ペリーに話を戻しましょう。
ペリーが日本を訪れた目的は、アメリカ大統領からの親書を将軍に渡すことでした。最初は、外国との交渉ができる長崎に行くようにと言っていた幕府ですが、やむなくペリーの上陸を許可し、親書を受け取ることになります。そのときにペリーが上陸した地には、下の写真のような記念碑が立っています。
この碑が立っているのは神奈川県横須賀市久里浜。なんと「浦賀」ではないのです!
テキストの内容をそのまま鵜呑みにすれば、ペリーはこの浦賀の港に来たと思ってしまいます。
でも、その内容に少しだけ興味を持って、地図を見たり、実際にその土地を訪ねてみたりすることでいろいろなことがわかるということもあるのです。これも歴史の楽しみ方の1つなんですよ。
記念碑が立つ場所は「ペリー公園」として整備され、公園内にはペリー来航に関する資料館も建てられています。JR横須賀線や京急線の久里浜駅から徒歩20分くらいのところですので、「駅から散歩」にもちょうどいいと思います。機会があったら、ぜひ訪ねてみてください。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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