白井亨(しらいとおる)

~新潟県長岡市・燕市 大河津分水路編~

2022.11.25

~新潟県長岡市・燕市 大河津分水路編~

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

前回のブログで、信濃川につくられた「関屋分水路」の話をしました。
実は、信濃川にはもう1つ分水路がつくられているんです。
それが「大河津分水路」で、信濃川の河口から約50㎞の地点から分岐している全長9.1㎞の水路です。できたのは関屋分水路の50年も前になります。
下の写真が大河津分水路です。電車内から撮った写真なので少々不鮮明なところもありますが、「水路」なんて呼ぶのが憚られるくらいの立派な川に見えますよね。

この分水路をつくることが最初に発案されたのは江戸時代のことだそうですが、完成は大正時代。なぜ、長い間工事ができなかったのか、これは「?」ですね。それでは、いつものように地理院地図でこのあたりの地形を確かめてみましょう。

地図を見れば一目瞭然です。信濃川の水を日本海に流すためには、海の手前にある山地を越えなければなりません。地図の色からも、前回の砂丘のような標高の低いものではなく、明らかに「山」であることがわかるでしょう。ここに水路を通すのは、重機などのない江戸時代では困難だったことは容易に想像することができます。また、分水路の建設には思わぬところからの反対もあったようです。それは河口にある新潟市。前回のブログでも書いた通り、新潟は港町として発展してきました。そして、その港は信濃川の河口付近にありましたね。そして、その港は川が運んでくる大量の土砂によって、水深が浅くなってしまうという問題がありました。分水路の建設によって信濃川の流量が減少することで、さらに水深が保てなくなり、港が機能しなくなってしまうことを心配したのでしょう。

分水路の建設ができないまま、信濃川の流域ではたびたび水害が発生し、1896年には「横田切れ」とよばれる大洪水が起こったのです。堤防の決壊により25000戸の家屋が流出するという大きな被害を受けたことで分水路建設の声は高まり、ようやく建設工事が始まったのが1909年のこと。大変な難工事だったそうですが、ついに1922年、江戸時代の発案から200年を経て、大河津分水路に水が流れました。その後も様々なトラブルがあり、すべてが完成するのは1931年のことだそうです。工事開始から、なんと22年もかかっているんですね。

再び地図に目をやると、分水路の東側に「分水駅」という駅があることに気づきました。分水路に分水駅、これは偶然とは思えませんね。調べてみたところ、予想通り「信濃川と大河津分水路が分かれる地点があること」に因んでいるそうです。それだけ、この分水路の建設は、この地域に住む人々にとって大きなできごとだったということでしょう。事実、近年も何度か台風や豪雨に襲われながら、下流域への水害は起こっていないそうです。

ところで、新潟市の人々が心配していた、信濃川下流域への影響はあったんでしょうか?
気になったので、もう一度新潟市中心部の地図を見てみました。すると1つ気になった地名がありました。信濃川の河口に突き出るような形のところにある「万代島」です。地名から察すれば、おそらくここはかつて島だったのでしょう。

大河津分水路ができる前の信濃川は水量が多く、川幅ももっと広かったのです。万代島は、信濃川河口にあった中州だったんですね。信濃川下流域の水量が減少したことによって、大規模な埋め立て工事がおこなわれ、万代島と信濃川右岸(新潟駅がある側)が陸続きとなって現在の地形となっているのです。万代島には、前々回のブログで信濃川の写真を撮った「朱鷺メッセ」の他、商業施設などもあります。
また、地形図を見ると青っぽいところが多いですよね。これは、この付近の土地の標高が低いことを示しています。もし分水路ができていなかったら、この地域は水害の被害が大きくなるでしょうね。大河津分水路の建設と、それに伴うこの埋め立て工事は新潟市中心部の発展にも大きく役立ったということになるのではないでしょうか。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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