~新潟県新潟市 信濃川と新潟の港編~
2022.11.11
~新潟県新潟市 信濃川と新潟の港編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
前回のブログで気づいた「?」を振り返ってみましょう。
信濃川河口には大量の土砂が運ばれてくる。新潟は貿易港としても重要。その大量の土砂は港に何らかの影響がないのだろうか・・・ということでした。
「新潟」と「港」を結びつけて思い浮かぶキーワードは、1858年に結ばれた「日米修好通商条約」です。
通商というのは「貿易」のことですから、条約の名称からもその内容がわかりますね。
この条約で、貿易港として開港されたのが、函館港、横浜港、神戸港、長崎港、そして新潟港です。
条約が結ばれた翌年の1859年には、函館港、横浜港、長崎港が開港されます。神戸港の開港は、京都にいた天皇の強い反対などによって遅れて1868年になります。
新潟港はさらに遅れて1869年になってから開港しているのです。1869年といえば、時代はもう明治時代に入っています。なぜ、こんなに遅れてしまったのでしょうか?
だいぶ遠回りをしてきましたが、ここに新潟港と信濃川の関わりがあるのです。
それを確認するために、新潟港と同じく日米修好通商条約で開港の決まった函館港と長崎港の地形を見てみましょう。
どちらも陸地に囲まれた、いわゆる「湾」状のところに港がありますね。
地図を見るまでもなく、横浜港は東京湾内、神戸港は大阪湾内ですので、この4つの港は、どれも同じような地形に位置していることがわかります。新潟港のように、近くに大きな河川もなさそうです。
今度は新潟港の地図を見てみましょう。明らかに湾内ではないですね。
なんと、新潟港は信濃川の河口部分にあるんです。
開港が大きく遅れたのは、この位置が関係していました。信濃川によって大量の土砂が運ばれてくるこの港の水深は浅く、大きな外国船は入港することができなかったのです。外国船が入れる水深の深い港にするための工事に長い時間を要したため、条約から10年以上も遅れての開港になってしまったんですね。
さらに、戊辰戦争の影響もありました。港町新潟は、旧幕府軍と新政府軍のどちらにとっても重要だったのです。
下の写真を見てください。新潟港に土砂が流れ込んでいることがはっきりわかります。
大量の土砂が運ばれてくることは現在でも変わりません。
そのために建設されたのが、先ほどの地図の左のほうにある「関屋分水路」なのです。1972年にできたこの分水路は、新潟市内の洪水被害防止と新潟港への土砂の堆積防止という2つの大きな役割を担っています。
さらに新潟港では、水深を維持するために定期的な港内の浚渫をしています。浚渫というのは、海底をさらって土砂を取り除くことです。新潟港の年間の浚渫量は約85万㎥にもなり、これは日本全国の海に投棄される浚渫土砂の約70%にもなるそうです。
最後に、新潟港の名誉のために、他の4港と比べた利点を考えてみることにしましょう。
信濃川、阿賀野川という2つの河川がある新潟港は、水で苦労することはなさそうですね。しかし、大きな河川がない他の4港はどうでしょう? 水には苦労したのではないかということが予想されますよね。当時の船は蒸気船です。蒸気機関を動かすのには大量の水が必要ですから、この点では、新潟港は他の4港よりも優れていたのではないでしょうかね。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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