『大野先生と辿る!月ごとの歴史的事象』
2022.09.14
「最後の○○が日本にやってきた」
みなさんこんにちは。リンスタ高校入試社会科担当の大野です。このブログでは、時期ごとに時をさかのぼって、過去にどんな出来事があったかを探っていこうと思います。
第1回は、少し前ですが夏の終わりにどのようなことがあったか探っていたところ、「1708年8月29日(新暦では10月12日)にシドッチが屋久島に上陸」というものを見つけました。シドッチって誰?と思ったでしょうが、江戸時代になって100年余りが過ぎ、鎖国体制が固まった日本の屋久島に外国人が「上陸する」ということは普通のことではなさそうですね。
シドッチはイタリアのシチリアで生まれ、神学校を学んだあとローマへ渡り、ローマ教皇庁で裁判諮問官を務めるほどの優秀な人だったそうです。シドッチは江戸幕府によるキリスト教弾圧や、宣教師の殉教の話を聞き、32歳のときに日本行きを決めたといいます。日本語を学び、途中4年間滞在したマニラでも奉仕活動をするかたわら、日本人キリシタン(高山右近ら)の子孫から日本への渡航に必要なものをそろえたといいます。これで副題の○○が分かりましたね。シドッチは江戸時代に日本に来た最後のバテレン(宣教師)だったわけです。
マニラの宣教師たちは日本が相変わらず鎖国状態であることを理由に、日本行きに反対しますが、シドッチの決意は変わらず、マニラの人々は彼のために新たに帆船を建造して彼を見守ったといいます。シドッチの熱意と人徳がうかがえるエピソードですね。
こうしてマニラを発ったシドッチは屋久島に上陸しました。髪を月代に剃り、和服に帯刀という侍の姿であったものの、風貌と言葉が通じないことから怪しまれて長崎に送られてしまいます。
さてみなさん、日本語を学んで上陸したにもかかわらず、なぜシドッチの言葉は通じなかったのでしょう?おそらく、学んだ日本語が古かったのだと思います。時が経てば言葉も変わります。鎖国から半世紀以上が過ぎているわけですから、最新の日本語を学べなかったのでしょう。また、当時は今のような共通語が存在しなかったので、方言が聞き取れなかったと考えられます。
江戸に送られたシドッチを尋問したのが当時幕府を仕切っていた新井白石(正徳の治で有名ですね)です。新井白石は尋問の中でシドッチの人格と学識の深さに感銘し、「宣教師は日本侵略のために来日している」という通説が誤りだと認識したといいます。バテレンは見つけ次第拷問してキリスト教信仰を捨てさせるのが掟でしたが、新井白石は本国へ送り還すよう幕府に上申しています。幕府が採った結論はシドッチを切支丹屋敷に終身幽閉にするものでした。はじめは金二十両五人扶持という破格の待遇でしたが、彼を世話した老夫婦が洗礼を受けたことが発覚すると地下牢に移され、47歳の若さで亡くなりました。
新井白石はシドッチとの対話から得た知識を『西洋紀聞』『采覧異言』にまとめました。実は、「シドッチという宣教師が日本にやってきて捕まり、新井白石が尋問してその内容を書物にまとめた」ということは、高校日本史で普通に扱われます。私も定期テストや受験対策で一生懸命覚えたものですが、これに新たな事実が加わったのでした。2014年、切支丹屋敷跡のマンション建設予定地から人骨が発見され、DNA調査などの結果からシドッチの遺骨であることが分かったというのです。遺骨をもとに国立科学博物館がシドッチの頭部復元像を制作して2016年に公開されました。現在の日本史資料集にはそのことまで載っています。
左:切支丹坂 右:切支丹屋敷跡
歴史という学問は習った内容が書き換えられることがあるんですね。親子で会話をすると「えーっ、今はそう習うの?」ということもしばしばです。歴史学のみならず、さまざまな技術の発展で今後も新たな発見があるかもしれませんね。
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