比喩としてのフルマラソン
2022.12.27
さて、前回までは2回にわたり中学受験とも国語とも関係のないお話をしてしまいました。
フルマラソン挑戦記(前編)はこちら
フルマラソン挑戦記(後編)はこちら
そもそも、今年のチャレンジが「フルマラソン」だったのには理由があります。「マラソン」が「受験」の比喩表現として使われることが多い気がします。試しに「受験 マラソン」で検索してみるとたくさんの記事がヒットしました。
なぜ「受験はマラソンのようなものだ」と表現されるのか。実際に走ってみるとわかるのではないかと思ったことがそもそものきっかけでした。
さて、走り終えて考えた、なぜ「受験はマラソンのようなものだ」と表現されるのかについて、個人的な見解を記したいと思います。
走り始めてすぐは自分のペースを守ることに必死です。周りの人のペースを基準にするとうまくいかないことをハーフマラソンの大会で知り、フルマラソンの大会では実行することができました。自分より速い人がたくさんいる場所では不安になります。自分は前に進んでいるはずなのに、人波は後ろに流れていき進んでいないような錯覚を覚えます。自分よりゆっくり走る人がたくさんいる場所では無意識にそのペースに合わせてしまうのかもしれません。しかし、どちらも42.195km全体を見たときに得策とは言えません。周りのペースはコントロールできませんが、自分のペースはコントロールできます。決めたペースを黙々と守り続ければそれが報われる瞬間が訪れます。折り返し地点を超えたあたりから多くの人々は走ることをやめ、歩き始めました。そこでもペースを守り続けることで自分を追い越したランナー達を自分が追い越す番がまわってきます。「うさぎとかめ」に出てくる「かめ」のように、大事なのは自分のペースを信じて走り続けることでした。
村上春樹氏の「走ることについて語るときに僕の語ること」の前書きに次の一節が出てきます。
Pain is inevitable. Suffering is optional.
これを村上春樹氏は以下のように訳しています。
「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」
そして、彼はこの言葉について以下のように説明します。
たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、
「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうか
はあくまで本人の裁量に委ねられていることである。この言葉は、マラ
ソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。
引用元:村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」(2010)
本当にその通りだと思うと同時に、受験勉強もまた同じだと思います。そして、「オプショナルとしての苦しみ」を通してこそ得られるものがあるのかもしれません。受験勉強だけでなく、人が自分の限界を超えて成長していくことは「オプショナルとしての苦しみ」を引き受け続けるということなのかもしれません。
走っていると、脈拍が不安定になったり、思考がぼやけたり、足が痛くなったり、一方、突然体力が回復したような気になったり頭が急に冴えるような感覚になったり……いろんなことが起こります。体の仕組みはよくわかりませんが、それでも自分の体が今どのような状態にあるのかは感覚的に理解できます。そして、恐らく周りの人にはその全てを理解することはできません。あくまで自分のことは自分が一番よくわかるのです。
受験勉強も同様で自分の痛んでいる箇所は自分自身がよくわかるはずです。それを無視するとどこかで“完走”できなくなるのではないかと思います。冷静に自分自身と向き合い続ける、ある意味では「孤独」な作業が求められます。
最後は、目標に向かって前進し続ければいつか必ずゴールを迎えられるということです。諦めると全てがそこで終わってしまいます。そして、近道はありません。一歩ずつ進み続ける以外に道はないのです。
受験生の皆さんが自分の定めた目標に向かって諦めず前進して、“完走”してくれることを心から祈っています。
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